「ブラッドライン」
そんなに長くない知らない世界の日常

ログ

2011/10/12
吐く息が白い。いや、この世界どこにいても息が白くならない屋外など無いだろう
ミシェヘラは氷河の上を進んでいた。いや、この世界は世界の果てまで氷河が無い場所など無い
一瞬で魂まで凍りつくマイナス90度の世界、白い氷原のキャンバスにたったひとつの赤黒いしみがあった
近寄ってみればそれは2メートルほどの巨人めいた鎧だとわかるだろう
ミシェヘラがこの極寒の氷河を渡れるのはその身を包むこの鎧のおかげなのだ


2011/10/13
鎧は黒くなめらかな表面でありながら全く光沢が無い
そして呼吸のたびに電子回路のような赤い線が鎧の表面で明滅する
しゃれた貝のように鎧には突起物があちこちから突き出しており、先端から時折湯気を噴出させた
ミシェヘラが鎧の中で華奢な手足を動かすたびに鎧はその何倍もの力を出して四肢を動かす
何もない雪原に、2メートルの鎧とそれが背負う同じくらいの大きさの荷物の塔が揺れ動いていた


2011/10/15
ミシェヘラは一歩一歩鎧に包まれた足を踏みしめる
彼女の足は少しも柔らかい雪に沈まなかった。これも鎧の御利益である
鎧の背中にうずたかく積まれた荷物を目的地へと届けるのが彼女たちの仕事だ
荷物は布と革で風雪から守られ、街から街へと取引される
この過酷な氷原を渡る唯一の方法、それを一手に担うのが…彼女たち騎士だった


2011/10/16
はるか昔神話の時代、この世界は様々な植物が生い茂る亜熱帯の世界だった
しかしいつしか冬が訪れ…そして春はこなかった
人々は地熱と石炭を求め地中深く穴を穿ち、古代には全ての都市が坑道で繋がれ繁栄したと言われる
しかしいつまでも訪れない春を待ちながら文明は衰退し多くの道が落盤で失われた
いまや地表を歩く騎士の交易路…「ブラッドライン」こそが唯一の生命線であり大動脈である


2011/10/17
ミシェヘラは雪原のはるか先に湯気が立ち上っているのを見つけた。あれが街だ
近くの氷山の中腹で光が瞬く。それは隣の氷山に伝播し、光は湯気の方へと進んでいく
「おーい、騎士さんや! 待っていたぞー!」
だるまのように防寒具を羽織った男が叫びながら駆け寄ってきた
ミシェヘラは、迎えてくれたひとたちに大きく手を振った


2011/10/19
氷原にぽっかりと開く巨大な縦穴。これが街の入り口だ
換気のため穴の周辺では凄い風が吹いている。ミシェヘラは転ばないように注意して歩いた
「ヴハハハハ! これが西方の医薬品…どれも素晴らしい品じゃい!」
だるまのようなこの男、名前はムグン。この街の役員だ
ムグンはミシェヘラの肩から下ろされ荷車に積載された交易品を品定めしながら一緒に歩いている


2011/10/20
ミシェヘラは街に入り、通りゆくひとたちを見つめていた
穴の底からは、暖かく湿った空気が排気されて上空で外気に触れ湯気となった
縦穴の壁面にはらせん状の階段やスロープがあり、ずっと下まで続いている
比較的暖かいのでミシェヘラは鎧の上半身を展開し、シャツ姿でそういった階段の一つに腰をかけていた
すると、下の方からムグンが息を切らしながら太った身体でぜえぜえと階段を登ってくるのが見えた


2011/10/22
「こんなとこにおったか!」
「おう、ムグン。どうした? もう帰りの便か。はやいな」
ムグンは話そうとしたが、息が切れているのでとりあえず手拭いで顔を拭きながら深呼吸した
ミシェヘラは元来のんびりやなので話すのを待ちながら鎧についてるチューブからぬるい茶を飲む
ムグンは明らかに興奮していた。よくあることだが、今日はいつもと違うようだ。やがて彼は語りだした


2011/10/23
「こ、坑道が…通った…」
「ん? どういうことだ!? どこに通じていた!?」
のんびりやのミシェヘラもこれにはおどろいたようだ。チューブからお茶が零れているのにも気づかない
「東だ。東の山の向こうに街があったようだ…ぜぇぜぇ」
無線技術など失われて久しい。ブラッドラインの通らない場所は、隣であってもほとんど気付かれないのだ


2011/10/28
事件はその日の未明に起こった。場所は旧坑道302路線
トロッコのレールが引かれた直径2メートルほどの坑道は東へと伸びていたが
落盤に加え浸水しており、また、鉱山への道だと思われていて放置されていた
月一度の巡回に回っていた見回り兵は、今日も報告書に書く問題なしの文面をいかに修飾するか考えていた
しかし今日は違った。浸水して水たまりになっている坑道の底に、彼は得体のしれない発光を見つけたのだ


2011/10/30
見回り兵は気になって水底に目を凝らした
揺らめく発光はだんだん水面へと近づいてくる!
彼は銃を構え……謎の物体との遭遇に備えた
水面に気泡が浮かぶ! 見回り兵は発光体が人型の……恐らく潜水士のヘッドライトであると気付いた
やがて3人の潜水士が上陸してきた! 彼らは見回り兵の銃を見ると、古い……古い時代の友好の手信号を振った


2011/11/2
3人の潜水士は極秘のうちに街の政府に通された。これが昼のことである
ミシェヘラが到着したのもちょうどこのころだった
潜水士のリーダーは自分のことをキエクと言った。訛りは酷いが幸運なことに意思疎通はできる
ムグンの上司でありこの街……フルスベンの市長は大急ぎで彼らの待つ応接室に急いだ
キエクは入室した市長を見るなり彼が席に着くのも待たず切迫した声で語りだした


2011/12/26
「た、たいへん。とても。たすけて。こわい!こわいことが起こっている!」
「キエクさんと言ったな……まぁ、まぁ、落ち着きたまえ」
市長は飛びかかりそうなキエクを制止し、急いで席に座った
「それで、こわいことと言うのは……?」
キエクははっとして、急いでぴっちりとしたインナースーツのポケットを探る


2012/1/18
キエクは透明なフィルムに包まれた写真を取り出した
そこに写っていたのは…身体に緑の斑点を浮かばせて苦しそうに病床に伏せる患者である
「びょうき……いっぱいしんでる。こわい!たすけて!ぼくたちこりつしてる」
「なんと……!」
そして市長はムグンを呼んだのだ。ここから先は…騎士の仕事だ


2012/1/18
「ムグン、なるほど。緑斑病は確かに薬が無いときついな」
ミシェヘラは落ち着いていた。緑斑病の薬はこの街にたくさんある。問題はどうやって運ぶかだ
「時間が足りない、坑道の穴はせまくて輸送には向かない。山を越えるんだ」
「……やっぱり。仕方がないか」
騎士と言えども雪山を越えるのは至難の業だ。できればやりたくない


2012/1/18
でもやらねばなるまい。この世界の文明は分断され、散り散りになって滅びつつある
だからこそ、救わねばならない。ひとつの繋がりが生命線となる時代なのだ
ミシェヘラは展開していた鎧の上半身を閉じ、立ちあがった
「ムグン、薬の手配を頼む」
彼女は空を見上げた。円筒状の街に光をもたらす丸く切り取られた空には雲の欠片が風で勢いよく流されていた


2012/2/5
ミシェヘラは家へ向かった。この街に立ち寄ったときに住む仮住まいだ
家は家というより納屋だった。螺旋階段の這う縦穴の中腹に掘った横穴の部屋
横穴は迷宮のように複雑に穿たれ、ミシェヘラの仮住まいは奥の方の片隅にあった
扉を開けるとひと二人座れる程度の空間とうずたかく積み上がった道具類が迎えてくれた
もちろん休むための部屋ではない。ミシェヘラはザイルやハーケン等を探し始める


2012/2/6
そして棚から精油の一斗缶を下ろしポンプで鎧に注ぎ込む
廃油はチューブで隅のドラム缶に流れ落ちていく。黒く濁った赤みを帯びた油だ
鎧の腰を展開し小さいピンやシリンダー、ヒューズも交換する
腰を閉じると次は兜を開いて豆電球のような機械をひとつずつ外して交換する
いずれの消耗品もあと数回の旅には耐えられそうだが、万全を期すにこしたことはない


2012/2/7
精油の入れ替えが終わったようだ。バルブを閉めて空気を抜き、最後に水を補給する
ミシェヘラは鎧を展開し床に降りた。短く切られた赤い髪が汗でべっとりとしていた
部屋の片隅の雑貨を掻き分け、彼女は埃まみれの化粧台を引っ張り出す
赤く眉を書き口紅を塗る。そして細い肢体に赤くまじないの文面を少し書く
最後に彼女は鏡に向かってにっこりと笑った。釣り目がちな目が細く伸びた。戦いの準備ができたのだ


2012/2/8
翌朝、ミシェヘラは東の雪山越えへと出発した
東は山脈が横たわり、何人か騎士が探検に行ったが危なくなり引き返してきたのだ
雪山を歩くのは初めてではない。しかしとても危険な旅だ
薬を満載した背嚢を背負いながら、歩けそうな山道を推測し、進んでいく
山は街から近いのだが、念のため1合目あたりでキャンプを張り初日を終えた


2012/2/10
山は氷河で削られ頂の方は切りたった崖、その間は氷河の坂になっている
ミシェヘラは鎧の力も相まって人並み外れたスピードで雪山を進む
鎧が、気圧の変化を告げる。天候が悪くなりそうなのだ
望遠レンズでキャンプ地を探す。遠くにちょっとした平面がある。あそこがよさそうだ
雪山用にスパイク状に変形した鎧の足は氷河をしっかりと踏みしめていた


2012/2/26
その平地にミシェヘラはゆっくりと向かった。感じる僅かな違和感
”外部気温上昇” 鎧がアラートを告げる。何かがおかしい
”現在気温-40…-35…-20…-5……”
ミシェヘラは鎧が壊れたと思った。準備は万端だった。だがこういうこともある
突然彼女の足場が崩れた!!クレバスだ!!悲鳴を上げる暇も無く彼女は闇の底へ消えた


2012/2/28
気がつくとミシェヘラは草原の中に倒れていた
薄暗い空間の中ぼんやりと発光する草や花。おとぎ話でしか聞かなかった場所
彼女は立ちあがると、傍に落ちてる薬の詰まった背嚢を拾った
いったいどういうことだろうか。草原という場所は氷河にのまれて遥か昔に消えたはずだ
見上げるとクレバスの裂け目がぼんやりと見えた。ともかく、何とかして上がらなければ


2012/3/1
とりあえず落ち着いて周囲を観察する。ドーム型の地下空間だ。遥か上には落ちてきた裂け目
地面には淡く緑に光る植物の群生。奥の方には、何かが山のように積み上がっている
ミシェヘラは、植物の生える地面に、たくさんのプレートが整然と埋め込まれていることに気付いた
プレートには解読不能な言語が記されている。まるでここは…墓地だ
何か物音に気付く。ノイズのようなそれは、いつの間にか、奥に積み上がる何かの山から聞こえているようだった


2012/3/2
山のようなそれは、一見がらくたの山のように見えた
不思議な機械が複雑に絡み合い、四方にパラボラアンテナがいくつもついている
裏に回ると、ノイズで明滅するコンソールがあり、その前に一人分の白骨があった
"ザザ…トモダチ…ミツケ…トモダチ……キコエ…カ…コチラ…RWES…E1934…ERT…メッセルカウサ…"
古い古い言語だ。ノイズは、そう言っているように聞こえた


2012/3/3
ノイズ交じりの音声は、その機械から絶え間なく流れ続ける
"トモ……ザザ…ミツケタ…ザザ…オウトウ…キコエ…ザザ…"
"シグナルヲ…ザザザ…ザザーッ……トモダチ…ドウシテ…ヘンジヲ…"
"コチラ…RW…TYS…E19…983ERT…ッセルカウサー…ザー…ザザーッ…ザーッ"
ノイズはだんだん酷くなり、やがて突然途絶え、二度と流れなかった


2012/3/11
きっとここは遥か昔の記憶だけが残された墓所なのだ……
春を待ちながら消えていったひとたちがここにもいたのだろう
どんなに素晴らしい文明を築いても、滅びを前にしてはもがきながら忘れ去られていくだけなのか
ミシェヘラは、コンソールの前に眠る白骨を埋めてやることにした
だいぶ時間も過ぎてしまった。彼女はその誰かを埋めてからここで一晩過ごすことにした


2012/3/12
翌日、ミシェヘラはルート復帰に向けて動き出した。鎧の内臓時計が朝であることを教えてくれる
空間はドーム状であったが、登りやすそうな壁を一か所あった
ピッケルとハーケンで強引によじ登る。鎧の身体能力強化によって壁をなんとか登ることができた
最後に下の草原を一度振りかえって、ミシェヘラはクレバスから脱出する
だいぶ寄り道をしてしまった。彼女は薬を背負い山越えを再開した


2012/3/20
彼女は山越えに集中した。吹雪は幸運にも無く、天候は穏やかだった
白い山肌の上には青い空が広がり、大きな雲の塊が風下へと流れていく
絶景だった
嶺には遥か古代の建築物の残骸が半分雪に埋もれている。造山運動でここまで押し上げられたのだ
頂に立ち山の向こうを見下ろす。白い氷河がどこまでも広がる…静かな場所だった


2012/3/28
下山は驚くほど順調だった。不思議なことに、いつもは大荒れな山の天気もこの日だけは穏やかだった
山の中腹から嶺を振り返る。ミシェヘラは、尾根道を列になって登る白い服のひとたちを見たような気がした
例の地下空間に入ったときから、彼女は夢うつつだった
鎧のモニターが壊れたのだろうか? さっきは白い蝶が群れをなして雲間を飛んでいた
薬を……薬を届けなければ。夢のようなまどろみの中でミシェヘラはそれだけを考えることにした


2012/4/4
下山した先には何もない氷原が広がっていた
山頂から見えるのはこの何もない場所だけだった
しかし向こうの街は確かにこの下にあるのだ。そのせいで長い間見逃されていた
鎧の消雪トーチを起動する。4本の熱源が鎧から放たれ、足元を溶かして行く
やがて雪の下に…氷で閉ざされた廃墟の地下都市が見えてきた


2012/6/20
隣の街は氷河の下で完結した世界だったため発見が遅れたのだ
空気生成のプラントが生きていたため人が住むことができたらしい
古代都市は氷河に削られることなく綺麗なまま存在していた
谷を作るほど強力な氷河の流れに耐えるとは、いかなる材質でできているのだろうか
ドーム型の古代都市は一見侵入不可能に思えたが、ところどころ小さい穴が開いていた


2012/6/23
古代はこの穴が通気坑として機能していたのだろうか?
奥まで氷が詰まっていたが、トーチで溶かしながら進む
氷が溶けた水で、すでに水中作業になっていた。トーチが水と反応して水蒸気の泡をたてる
鎧の水分解装置で、空気の心配は無い。浮力と水の抵抗に苦労しながらも通気坑を進んでいく
やがて、氷の奥にぼんやりとした光が見えた


2012/6/24
――都市は死に絶えようとしていた
坑道を掘り進み拡大しようとしていた都市は、地層の中から恐ろしいウィルスを掘り起こしてしまった
閉鎖空間で空気を循環させていたため、隔離するより先にその病気は広がってしまった
皮膚に緑の斑点を浮かべ次々と人々は倒れ腐って死んでいった…
限界が来ようとしていたとき、彼女は、とうとう到着したのだった!


2012/6/25
霜のついた天井に突然ひびが入り、滝のような水が落ちてくる
上層放棄階層の見回りをしていた老人は、すぐさま落下地点に駆け付けた
水飛沫で霧が立ち込める真っ白いキャンバスに、赤黒い影が見える
それは大きな背嚢を背負った2メートルほどの鎧であるとわかった。それは老人に語りかける
「ブラッドラインの盟約を果たしに来た。我ら氷原の子、共に同じ血脈を持つものとして」


2012/6/27
エピローグ

この世界は滅びつつあった
世界から熱は奪われ
幻のような太陽は次第に光を薄れさせる
後退する文明
病人のように次第に体力を失い
世界は力尽きようとしていた

しかし、そこに生きる人々には
最後まで熱い血潮が流れていた
滅びゆく最後のときまで
互いに支え合い
体温を共有する優しさがあった
ミシェヘラの物語から1万年後
この世界から完全に生命が消え去り
世界の終焉まで静かなときが流れた

他の世界から旅人が訪れたとき――
彼は見ただろう
静かな氷の中で互いに寄り添い眠る
安らかなひとたちの姿を――



「ブラッドライン」――END





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