――蛙の鳴く夕暮れ








1


ミケルは売れない行商人だった。
彼が売れると思って仕入れても、いつもはそんなに売れなかった。
今日もがらくたを背負い街角で商売をしていた。
擦り切れた麻のシートを広げ、珍品を並べている。
雨の上がった6月の空。

ミケルは帽子をかぶり、
擦り切れたズボンに青いシャツを着ている。
暇なのでナイフで木を削り彫刻品を作っている。
動物や神像が得意だ。売れないことは無い。
彼は案外この暇つぶしの彫刻が好きだった。

ミケルは木を削りながらいつも夢を見ていた。
いつかこの彫刻が売れるようになって、
彫刻家として食っていけるようになることを……。
しかし彼の夢とは裏腹に、彫刻はほとんど売れなかった。
彫刻は彼の独学で、作り始めの頃はよく馬鹿にされた。

彼は悔しくて彫像を投げ捨てたこともあった。
だが時が立つとまた作りたくなって、
作品を作り続けた。
今ではそれなりの腕になったかもしれない。
いつの間にか日は傾き、赤く染まる空に蝙蝠が飛んでいた。

ミケルはこの時間になるといつも、
張り裂けそうな悲しみに襲われる。
この売れ残りのがらくたや彫刻に自分を重ね合わせて、
ふがいない自分を恨めしく思うのだ。
幸せになりたい……彼はそう思った。

不意に、蛙が鳴きだした。
一匹ではない。何十匹もの大合唱だ。
ミケルは、自分の後ろの方に池があることを思い出した。
”雨が降るのかな……?” 
そう思って店をしまい始めた。

ミケルはそのとき自分の前に女性が立っていることに気付いた。
「もうおしまいなのですか……?」 
「あ、いえ、ぜひ見ていってください」 
女性はがらくたに目もくれず、彫像の一つを手に取った。
その彫像は梟の彫像で、羽が綺麗に彫刻されていた。

女性は、にっこり笑って言った。
「これくださいな」 
「ありがとうございます!」 
ミケルは彼女から代金を受け取る。
女性はそのまま軽やかに去っていった。

いつの間にか、蛙は鳴きやんでいた。
美しい女性だった。白い大きなつばの帽子に、青いワンピース。
ミケルは、また彼女が明日店に来て買物をしてくれたら
どんなに嬉しいだろうと思い帰路についた。
その日は悲しみを全て忘れ、ぐっすりと眠れたのだった。

次の日も変わらぬ一日だった。
相変わらずがらくたも彫像も売れなかった。
けれども、ミケルはどこか楽しそうだった。
”かろうじて食える分だけ売れればいい” 
そう思うと、暇つぶしの彫刻も鼻歌交じりのものになった。

ミケルは、いつもより多く彫刻ができていることに気付いた。
すでに日は傾き、街に大きな影が下りている。
”今日も終わりか……” 
パンが1個買えるくらいは売れた。それで十分だ。
そのとき、蛙の大合唱がまた聞こえたのだ。


2


その鳴き声はどこか泣いているようだった。
苦しみから漏れ出したような泣き声。
ふと気付くと、いつのまにか客が来ていた。
昨日の女性がまた来てくれたのだ! 
「あ、今日も……ありがとうございます」 

女性は昨日と同じ白い大きな帽子に青いワンピースだった。
立ったまま品物を覗きこみ、長い黒髪がこぼれる。
「今日の彫刻は……」 
鳩の木彫りをひとつ手に取る。
「これがお気に入りですね」 

ミケルはそれを聞いて嬉しくなった。その木彫りは自信作だったのだ。
「これをくださいな」 
木彫りは二束三文の値段だったが、それでも彼は嬉しかった。
受け取った代金を硬く手のひらに握りしめながら、
ミケルは彼女が去っていくのをいつまでも見つめていた。

それから、彼は彫刻を取り憑かれたように作り始めた。
例の女性はその後もたまに現れた。
決まって夕暮れに蛙の鳴くとき、白い帽子と青いワンピース姿で現れ、
彼のいちばん気にいった彫刻を買っていくのだった。
そして、いつしかその女性は姿を見せなくなった。

それでも彼は嬉しかった。
相変わらず彫刻もがらくたもさっぱり売れなかったが、
いつのまにか彫刻を作ることが楽しくなっていたのだ。
家は売れ残りの彫刻でいっぱいになった。
ミケルは売れ残りに囲まれながら幸せに寝るようになった。

ある日、彼はいつものように彫刻とがらくたを売っていた。
彼は彫刻を彫りながら、そういえば随分と蛙の鳴くのを
聞いていないと気付いた。
そのときはたいして気にも留めないでいた。
そしてその日も同じように日が暮れた。

ミケルは、向こうから屋台がやってくるのに気付いた。
「おい、そこの! はやく片付けろ!」 
屋台の男が怒声をあげる。
ミケルは、面倒はごめんだと黙って片付けはじめた。
しかし売れ残りは多くなかなか片付かない。

それを見た屋台の男は舌を打ち、乱暴に商品を蹴飛ばした。
ミケルは男ににらみ返す。しかし男は嘲笑で返した。
「随分売れ残ってるじゃねぇか。邪魔だから明日からここに来るなよ!」 
ミケルは言い返せず、荷物をまとめて逃げるように帰った。
彼は悔しさで泣いていた。

家に帰ったミケルは晩御飯も食べず布団に横になっていた。
いつもは温かく見守ってくれる売れ残りの彫像も、
この日はただのがらくたに見えた。
彼は悔しさで布団にくるまりながら泣いていた。
すると、どこからか……蛙の鳴く声が聞こえてきたのだ。


3


蛙の鳴く声はどんどん大きくなり、絶叫とも呼べるほどになった。
ミケルは泣くのをやめて、布団をはねのけた。窓は真っ赤に染まっていた。
不意にドアをノックする音が聞こえた。
耳を全て埋めるような蛙の絶唱の中でも、はっきりと聞こえた。
声がする。ドアの向こうからだ。

「彫刻を買いに来ました」 
あの女性の声だった。ドアの窓には赤い背景を背負って
大きな帽子の黒い影が見えた。
「もう店は閉めたんだ」 
彼は恐る恐る言った。影は動かない。

「こんなに泣いているのに、強がらないでください」 
不意に彼は蛙の鳴く声の正体に気付いた気がした。
彼は辛かった。売れ残った商品をかき集め家に帰る夕暮れが。
いつも彼は泣いていたのだ。心の奥底で、ふがいない自分に。
ではこの女性は……?

「もう僕は泣かないよ」 
ドアの向こうの女性に向かって言う。
「いや、たまには泣くかもしれないけど」 
「もう僕は負けたりしないよ」 
ミケルはなんとなく彼女がわかりつつあった。

「もう僕は一人で大丈夫なんだ、だから……」 
ドアの窓の影が揺らいだ。
「強がらないでください、辛いくせに」 
そして影は完全に消えた。蛙の鳴く声と共に。
窓の外は完全に暗い夜の街並みに戻っていた。

ミケルは立ちあがってドアに恐る恐る近づいてみた。
ゆっくりと開けてみると、玄関先にいくつか物が落ちていた。
それは、いままで女性が買ってくれた彫像たちだった。
その中の一つ、彼は昔自分が作った作品をひとつ見つけた。

それはつばの大きな帽子を被ったワンピースの婦人像だった。
泥で汚れ、湿っていた。まるで今までどこかに沈んでいたように。
ミケルはそのとき彼女を思い出した。
昔、彫像を馬鹿にされて、
悔しくて売れ残りの一つを池に投げ捨てたことがあったのだ。

「ごめんな、お前も悔しかったんだな」 
ミケルはそれの泥を綺麗に洗ってやって、棚に飾った。
彼はその後もがらくた売りを続けた。
相変わらず売れなかったが、悔しさを忘れようと心に誓って。

蛙は雨が来るのを感じて今日も泣き続ける。








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