――呪術


 灰土地域にも春がやってきた。旧都市ナィレンに積もった雪は全て解け、排水溝のさらに奥へと流れ去ってしまった。ナィレンは高層遺跡が立ち並ぶ古代の文明都市の首都だった。しかし時の流れを経て都市はほぼ放棄され、遺跡も妖怪や無法者が跋扈する危険地帯と化している。

 しかし街は見捨てられたわけではない。まだそこに暮らす多くの人々は残されていた。かつて無限の生産性を持っていた旧都市群は暴走状態にあり、内部深く寄生虫やならず者たちが入り込んでしまっていて。それらが時折人里に下りては様々な災厄をもたらしている。

 人々は団結し少ない資金を持ち寄って冒険者を雇い、人里に近い区域を定期的に掃討して脅威から身を守っている。赤錆の鎧の騎士ミェルヒと従騎士画家のエンジェもまたそういった形で人々に雇われた冒険者だった。旧都市群は幾層にも階層が分けられた高層建築物で、階段で結ばれている。

 旧都市の内部は静かな空間だった。天井や床は薄暗く発光し、屋内をぼんやりとした光で塗りつぶしている。その表面に苔のような暗い固着植物がまばらに生え、影を作った。床も壁も大理石のように冷たく滑らかだ。床は大きなタイルのように継ぎ目があるが、隙間は見られない。

 静かな空間に足音が響く。まるで明るい水底のようにその音は響いて消えていった。鎧のこすれる音。赤錆だらけの鎧はあちこちが戦いの中でへこみ、傷つき、修復されていた。その足音に遅れて、柔らかなパンプスの足音が聞こえる。彼女の服装は絵の具で汚れた灰色のワンピースだ。

「ここは安全そうだね、ミェルヒ」 
 エンジェは建物内の様子をクロッキー帳にスケッチしながら歩いていた。ここはかつて人々に温かな暮らしと豊かな生活を保障していた強大な魔力が渦巻く装置の中心だ。床には古代の生活用品や飲食物が生成されて転がっている。

「ミェルヒ、拾い食いはダメだよ。腐ってるかもしれないからね」 
 エンジェは冗談を言って足元の歯磨きチューブを拾った。パトロールの報酬はわずかだが、こういったものは拾って帰っていいことになっている。貴重な副収入だ。
「換金しやすくて軽いものがいいな」 
 ミェルヒは辺りを見回す。

 もちろん本業がおろそかになってはいけない。ぼんやりと光で満たされた空間に、二人は大きな影を見つけた。晶虫という巨大なダンゴムシに似た生き物だ。この晶虫はこの建築物に寄生し魔力を吸って生きる無害な存在だ。

 古代の遺産建築物は、ダンジョンという奇妙な生態系を作っていた。ダンジョンの魔力や生成物を狙って生き物が集まり、それを餌にする凶暴な生命がその上に立つ。頂点に立つのは冒険者という特殊な訓練を積んだ人間。彼らにとってはダンジョンの全てが人間世界で換金できる資源だ。

 ミェルヒは影が晶虫の物であったことに安堵した。……が、次の瞬間、晶虫の殻がはじける! 何か小さな存在が突進してその身を突き破ったのだ。ミェルヒはエンジェを下がらせ、剣と盾を構える。しかし相手は素早く、姿を捉えることすら難しい。

 重い突進がミェルヒを襲った。鎧はひしゃげ火花が散る。……強い。ミェルヒは賭けに出た。あまり得意ではないが、魔法を使うのだ。この赤錆の鎧は魔法を使えるように強化してある。鎧に魔力を流し、腕に埋め込まれたシリンダーに共鳴させる……簡易魔法が効果を現した。

 じわじわとミェルヒの身体から粘液が溢れ、二人を包む。
「うえっ、ミェルヒ、臭い!」 
「我慢して!」 
 それは腐臭撒き散らす毒の粘液だ。ミェルヒとエンジェは完全に粘液に包まれ、身動きが取れなくなっていた。だが、これこそが必殺の罠なのだ。

 無策にもまた突進してくる何か。だがすぐさま彼は異変に気付く。粘液に身を取られてしまう! どうやらただのウサギのようだ。ウサギはよくダンジョンにいるが、これほどまでに強いのはミェルヒも初めてだった。だが、もう遅い。ウサギの身体にどんどん毒液が染み込んでいく。

 毒液はだんだん透明になって消えていった。毒でぐったりしたウサギをミェルヒは捕まえ、首をひねり止めをさす。
「強かったな、よし、このウサギを捌いてごちそうにしよう」 
「えー、毒液が……」 
「魔法のことさ、大丈夫、食べる分には影響ないよ」 

 二人は燃料を探すことにした。たまに木材や家具など燃えそうなものも落ちているのだ。晶虫のいた向こうにはコンテナがいくつかあった。コンテナが生成されるのは珍しいことだった。宝箱のような箱が生成されることはよくある。大抵、貴重なものが中に入っているのだ。

 ミェルヒはコンテナに近づき、剣を使ってえいやっとこじあけた。傍でエンジェが見守っている。ミシミシと音を立てて開いていくコンテナ。ごろりと何か大きなものが転がり落ちた。冷たい空気が流れる。エンジェはひっと小さい声を漏らした。転がり落ちたものは……凍った人間だった。

「ひっ……しんでるの?」 
 ミェルヒは慎重に凍死体を調べる。全身に霜を纏った女性だ。装備からして同業の冒険者だろうか。魔力でなめした革のベルトで全身を縛っている。軽めの動きやすい装備だ。腰に短剣を帯刀している。頭には髪飾り。

「呪われているみたいだ……ちょっと起こしてみる」 
 ミェルヒは祈りを捧げ、蘇生を試みた。彼女は全身の組織が残っているのできっと楽に蘇生できるだろう。魂を冥界から呼び起こし、死の神の操り糸から解放させる。やがて霜は解け始め、彼女は瞼を開けた。

 彼女はすぐには喋れないほど凍えていた。溶けた霜は四肢の末端から再び凍りついていく。酷い呪いだ。このままでは再び凍死してしまうだろう。
「うーん、らちが明かない……」 
 霜はじわじわと彼女の体力を奪っていく。

「何か……温かいものを……」 
 氷漬けの女性はやっと声を出すことができた。ミェルヒはエンジェに作りかけていたウサギの料理をしてもらうことにした。スープがいい。温まるだろう。
「スープを飲んだら、ここから帰ろう。里できっと治療できる」 

 女性はゆっくりと頷くと、再び目を閉じた。彼女も呪いに対する抵抗を試みているようだ。ミェルヒも魔法で彼女を癒し、霜は指先から肘までを凍ったり溶けたりして一進一退の攻防を続けていた。スープをごちそうしたらすぐここを出なければ。ミェルヒはあることを心配していた。

 彼女に氷の呪いをかけた魔法使いが近くにいるかもしれないのだ。ここは殺し殺され、呪い呪われる危険地帯だ。ミェルヒ達のようなまともな冒険者なら無害だが、ここは産みだされる資源目当てに、怪物だけでなく無法のならずもの魔術師や魔女等がよく現れるのだ。

 エンジェはコンテナの裏に椅子を見つけて、解体して燃料にした。鍋に水筒から水を入れ、捌いたウサギの肉を入れる……香草と塩で味付けすると、いい香りがしてきた。エンジェはスプーンで味見すると、その出来を確信するように頷いた。そして一人分をコップに分ける。

「温かいスープだよ」 
 エンジェはスープを氷漬けの女性に差し出す。女性は、その熱を確かめるように両手でコップを包むと、少しずつ啜り始めた。……すると、不思議なことに、彼女の氷の呪いが解け始めたのだ!

「す、すごいスープね」 
「いや、おかしいぞ。こんな物理的な熱で解ける呪いじゃない……本当にウサギの肉か?」 
 ミェルヒも鍋からスープをすくって飲む。ミェルヒはその味を見て、渋い顔をした。 「エンジェ……これは魔法使いの肉だよ」 

「ええっ!?」 
「どうやらあのウサギは呪われてウサギになった魔法使いだ。あの効き目からすると彼女を呪った本人だな……」 
 女性が呻いた。どうやら呪いが完全に解けたようだ。疲れきってぐったりしている。

「情けない……が、助かった。わたしは運がいい。ざまぁ見ろ、ひとを呪わば穴二つだ。スープにいいダシ出してろ」 
 女性はゆっくりと立ち上がると、ミェルヒにしなだれかかった。

「里まで送ってくれ……頼む。わたしは酷く疲れた……報酬も出そう。赤字だ、くそ」 
 ミェルヒはその赤錆の鎧を軋ませて、少し恥ずかしそうにしたのだった。

 エンジェはというと、それを見て少し不機嫌そうになったのをミェルヒに悟られないようにしていた。遺跡の外はもう春の風が吹いていた。










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