お題:暁 蝿 縄


 戦場に朝日が昇ろうとしていた。鎧を身に纏った戦士たちは誰ひとりとして動くことなく、言葉を発せず、冷たく原野に横たわっていた。戦は終わったのだ。生き残った戦士たちは皆敗者たちを置き去りにして凱旋の途についた。

 いや、一人だけそこに生者がいた。彼は戦士だったが、深く傷つき、草の萌える大地に伏していた。立ち上がる力はなく、四肢の感覚を失っていた。流れ出でる自分の血液が目に映る。彼は戦いに生き残った。だが、そこが彼の限界だった。傷は深く、行軍から脱落し一人取り残されている。

 夏の朝は冷たく、露が落ちていた。彼は目だけを動かし、光を帯びつつある山並みの稜線を見上げた。彼は自分の死に場所がここであることを悟った。素晴らしい景色だ。血なまぐさい戦場とかけ離れた、青く赤く色づく空に、柔らかな光が満ちていく。点在する木の影は露を受けて輝き、鮮やかなエメラルドのように透き通っていた。

 死ぬには丁度いい。死ぬ間際にこんな美しい景色が見れるなら、自分の人生も捨てたものでは無かったのだろう。彼は脳裏に浮かぶ様々な未練に気付かないふりをしながら、美しさに涙した。

 ふと、仲間が去った道の向こうから誰から歩いてくる。サンダルの軽やかな音が草を踏みしめ近づいてくる。こんな戦場に誰が来るというのだろうか。死体漁りだろうか。彼は暁に燃える山から視線を下ろし、足音の主を探した。

 意外にもその人物は小柄な娘であった。手に縄を持ち、黒い服と半ズボンを着ている。どこかの農村から迷い込んだかのような、戦場には似合わない無垢な姿だった。娘は慣れた手つきで、男の手首に縄を巻き付けていく。

 男は声を発することすらできないほど衰弱していた。彼女は何をするつもりなのだろうか。どうせ死ぬのだから好きにしてもいいが、死ぬ間際に気になることをされては死に切れないことだと彼は心の中で笑った。

 娘は男の手首に縄をきつく巻きつけると、手を擦り合わせた。祈っているのだろうか、名も知らぬ男のために。男は感謝して笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉すら彼には動かすことが出来なかった。そして、娘は縄を持ちながら駆け出していく。

「お、おい! どこへ連れていくんだ」

 男は自分の声に驚いた。表情さえ作れないほど衰弱していたはずだったが、思いもよらないほど元気な声が出たのだ。男は娘に引っ張られて、よろよろと歩きだす。

「待ってくれよ、俺は疲れているんだ。ゆっくり眠らせてくれ」

 娘は振り返ってウィンクするとさらに歩くスピードを上げて駆け出した。男も信じられない力で引っ張られ、同じように走りだす。

「おいおい、俺は死にそうなんだ。もうちょっと労わってくれ」

 しかし、言葉とは裏腹に男は自分の身体に力がみなぎるのを感じた。四肢の感覚は若い頃のそれで、どこまでも走れそうな身体の軽さを感じている。傷口はすべてふさがり、呼吸は嵐のように激しくなっても息切れすることはない。

 彼は自分が風になったのだと思った。生きているか死んでいるかも分からないが、彼は最後にどこまででも行けそうな気がした。娘は空へと駆けあがっていく。男もまた、同じように空を上っていった。

 そうして2匹の蝿が、暁の空に消えていったのだった。










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