――取り戻すこと


 帝都の第63区画、郵便局のある交差点の角に、コーヒーサロン『コヌミク』23号店はあった。落ちついたセラミックプレート製の壁面は工場の排ガスで灰色に汚れていたけれども、それがどこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。『コヌミク』23号店は大きな書店のテナントの一つだ。

 『コヌミク』23号店には、多くのひとが訪れては去っていく。それは『コヌミク』というコーヒーサロンチェーンの流動性と同じように、留まることもなく濁りもしないそんなドライな一面を見せていた。だが、そんな中にも……足をとめた者たちが幾人もいた。

 ある男の物語である。彼はもう30代も半ばで、くたびれたコートを羽織りサロンの奥の静かな席に腰をおろしコーヒーを見つめていた。コーヒーはもうとっくに冷めていた。男はコーヒーを飲むわけでもなく、じっとうつむいてコーヒーのゆらゆら揺れる水面を眺めていた。

 時折何かに気付いたように、男は顔を上げてサロンの天井からつるされた照明を眩しそうに見つめた。窓の外には木漏れ日のような街灯や広告看板の明かりが見える。店内は食器の触れる音やざわざわした話し声で満たされていた。スピーカーからはスムージーなジャズが流れる。

 男は昼ごろからこの店に現れ、Sサイズのコーヒーを一杯注文し、この時間までこうしていた。男はため息をつくと、再び視線をコーヒーに落とした。彼にも昔は共にテーブルを囲い語り合える仲間がいた。休日になると彼らはいつもこの『コヌミク』23号店に集った。

 男はそのときはまだ若く、夢や希望を持ちそれを仲間に語っていた。男には夢があった……いつか、魔法を使えるようになること。この世界には魔法使いがどこにでもいるが、誰しもなれるわけではない。だが、男のそんな無謀な夢も仲間たちは馬鹿にすることなく分かってくれた。

 『コヌミク』23号店の奥の静かないつものテーブルの近く、気のいい仲間たちが集まり夢を語り合った。彼らは皆幸せだった……幸せな時間を一日中共有していた。しかし時がたつにつれ、仲間たちに人生の岐路が立ちふさがり、ひとりひとりそれぞれの人生を歩んでいった。

 いつの間にか、皆で集まることは無くなっていった。そして何年も会わない時間が過ぎ、皆の消息も分からなくなった。ただ、この男だけが取り残されたように時折こうしていつもの場所に腰かけ、空虚な時間を過ごしていた。

 男は一口だけコーヒーに口をつけた。じんわりとした苦味が舌に広がり、ブラックコーヒーの豊かな香りが鼻をくすぐる。男は少しだけ夢から覚めた。自分は何をしているんだろう。こんな場所で時間をすり減らしていても、過ぎ去ったものが帰ってくるわけでもないのに。

 自分はまだ夢を見ているのだろうか。男はひとり目を閉じ思った。結局男の夢は叶わなかった。抜け殻のようになり、ただ歳を取っただけの人間になってしまった。かつての仲間たちには見せられない姿だなと彼は自嘲した。夢が破れ、その破片を必死にかき集めている。

 再び彼の瞳が夢の中へ溺れていく……その前にその視線を横切る者がいた。男ははっと顔を上げる。新たに現れたもうひとりの男は、男の前で足を止めると、どっかと対面の席に腰を下ろした。帽子を目深にかぶり、カーキ色のロングコートを身につけている。右手にはコーヒー。

 帽子の男は湯気を立ち上らせるコーヒーを机に置き、しばらく黙っていた。男はこの帽子の男に前会ったことがあるような気がした。帽子の男はゆっくりと語りだした。
「カルロ……俺は魔法使いになったよ」
 その瞬間、男――カルロは、全てを鮮明に思い出した。

 カルロの後輩に、魔法使いになる夢をいつも楽しそうに聞いていた男がいた。名前はジェルミだったか。カルロの良き理解者だった。だが、当時はジェルミには何の才能も無いような感じだった。あのジェルミが……魔法使いになった!? たしかに……その帽子の男の声はジェルミの物だった。

 カルロは嫉妬しただろうか? 自分に出来なかったことを、ジェルミはやってのけたのだ。カルロはこんなにも惨めなのに……。だが、カルロは言った。
「そうか……おめでとう、ジェルミ」
 そう、笑顔で言ったのだ。

 ジェルミは黙って視線をコーヒーに落としていた。クリームが入れられ、まだ混ざっておらず渦を巻いている。カルロはじっとジェルミを見ていた。目にじんわりと涙を浮かべながら。ジェルミは自慢しに来たわけでもない。惨めなカルロを見下しに来たわけでもない……それは分かっていた。

「夢……だったね、カルロ。カルロの見た夢の続きを……俺は取り戻したよ」
 ジェルミはそう言って、コーヒーをスプーンでかき混ぜ始めた。スプーンがカップに触れる音が響く。カルロは涙をぬぐって視線をコーヒーに落とした。

 そうだったんだ。みんなひとりひとりの夢ではなかったんだ。ここで……『コヌミク 』23号店で語った夢はみんなの夢だったんだ。それをみんなで信じていたんだ。ジェルミは苦労しただろう。このコーヒーサロンに来るまでの道のりは、決して誰かに共感されるほど薄っぺらではないはずだ。

「また、コーヒーを飲めたらいいな……」
「ああ……」
 今日も夜は更け、『コヌミク』23号店には様々な者たちが行き交い、立ち止まり、立ち去っていく。











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