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――暗中模索#1


◆1


 メルヴィは冬の柔らかな朝日を受けてゆっくりと目覚めた。窓の外はくすんだ曇り空で若干薄暗い。木造アパートメントはすっかり熱を失い彼女の息は白かった。メルヴィはゆっくりベッドから這い出すと、部屋の中央にある鉄製ストーブに火を入れる。

 部屋が温まるまで、メルヴィは毛布を被り電影機を見ることにした。電影機のスイッチを入れると、いつものように朝のニュースが流れていた。ニュースキャスターは淡々と今日の一般市民の犠牲者を告げる。魔法使いに殺された市民たちだ。

 そう、ここは人類帝国の首都、帝都なのだ。街は魔法使いが支配し、重機や工場が不気味な機械の駆動音を響かせる。排ガスが空を曇り空に染め、重粒子の霧が都市を包みこむこの灰土地域最大の街……。

 ニュースキャスターは淡々と政府機関の連絡先を告げ、次のニュースの記事を読み上げる。死んでしまっても身寄りがいて死体が残っていれば政府が蘇生をしてくれるのだ。ただ金がかかる話ではあるが。その仕事は神の力を借りる。

 人類帝国政府の神の管轄は教導院だ。そして……メルヴィはいまその教導院の制服に袖を通す立場だ。
「今日も仕事多そうだなぁ……たくさん死んだしなぁ」
 あらかたニュースを見たので、電影機を消し朝食の用意をする。

 キッチンの鍋には煮込みキノコの残りがある。鍋を温まってきたストーブの上に置き、キノコを加熱し始めた。しばらく時間がかかるので、メルヴィは洗面所へ足を運ぶ。鏡の前に立つと、メルヴィはため息をついた。

 メルヴィは魔法使いらしく、その青い前髪で目を隠している。髪から飛びだすのは長くとがった耳。彼女は遥か南方に生きる種族、耳長族の一人だ。若干疲れの見える頬を彼女は引っ張り、変な顔を作った。

 若さが失われていく感覚が歳を経るごとに強まっていく。メルヴィは今年で30歳になった。もう10年も帝都で変わらぬ日常を過ごしているのだ。帝都に着いたら月へ行けると信じていた。しかし現実は政府の閑職で事務仕事に追われる日々だ。

 いや、ミクロメガスが……メルヴィを何かと助けてくれる謎めいたこの青年が丁度教導院の所属の者で、メルヴィに仕事を斡旋してくれたからなんとか安定した仕事につけている。これは幸運なことではあったし、今の生活も悪くはないものだ。

 メルヴィはキッチンから皿を持ってストーブに戻り、暖まった煮込みキノコを食べ始めた。それを窓から眺めている一つの影があった。それは窓の物干し竿にぶら下がってメルヴィをじっと見ている……巨大な黒い蝙蝠だった。


◆2


 キノコをほおばりながらメルヴィは時間だけが過ぎていく感覚を感じていた。今までの10年がずっと続いていくような、そんな感覚。何も変わることなく、何も進むことなく歳をとっていくのだろうか。メルヴィは身震いした。

 じっと目をつむり襲いかかった悪夢に耐えた。私は進んでいるはずだ……実際彼女の秘密裏に作っている機械だっていつかは完成する。砂粒だって積み上げれば山になる日が来る……メルヴィはそうして生きてきた。だが、10年が過ぎてしまった。

 そうやって苦しみながらキノコを食べているメルヴィをじっと見ていた黒い大きな蝙蝠は、しばらく迷った後窓ガラスを翼で叩いた。メルヴィはようやくその蝙蝠の存在に気付き、恥ずかしそうに応える。

「あ、アーサー、いつの間に……おいで」
 メルヴィは窓を開け蝙蝠を中に招いた。蝙蝠は甲高い声で返事をする。
「メルヴィのお嬢さん、なかなか話しかけるタイミングが掴めなくて……」
「それで今日は何の用事?」

 この大きな黒い蝙蝠……アーサーはミクロメガスの伝令だった。帝都には電話があるが、こういった安いアパートメントなどにはまだ電話線が通っていなかった。そのため、魔法使いはよく蝙蝠やカラスを伝令として何匹も飼っているのだ。

 アーサーは足首に赤いタグがつけてあるのが目印だ。ミクロメガスはメルヴィを呼びつける際いつも彼を伝令に使う。ミクロメガスがメルヴィを呼びつける時は、いつも決まって変な用事の時だった。事務仕事など回ってきたことは一度も無い。

「教導院の地下第七セクションで待っているそうです。すぐ来てほしいとミクロメガス様からの命令です」
「また仕事をキャンセルして呼び出すのね……ミクロメガスってそんなに偉いの?」
 こういった用事がある時はいつも仕事が休みにされるのだ。

 忙しい部署ではあるが、こういった用事で急に仕事のシフトが変わることが良くある。メルヴィだけでなく、他の同僚が急に呼び出されて代わりにメルヴィが休日出勤したことも数え切れない。教導院とはそういう所なのだ。

 神との交渉、儀式全般、あらゆる神について教導院はその権限を持つ。教導院のエージェントは秘密裏に神と交渉し、その利益を帝国にもたらす。それが教導院だ。表向きは市民の蘇生をやっている閑職だが、その実態は構成員であるメルヴィにも掴め切れない。

「そもそも第七セクションがあるなんて初めて聞いたわ……アーサー、案内してくれる?」
「お安いご用で。メルヴィお嬢。おや、着替えですが、では玄関で待っていましょう」
 メルヴィが制服を取ったのに気付いてアーサーは飛んでいってしまった。

 メルヴィはいつものように教導院の制服に袖を通した。欠伸をしながら帰ったら何をしようかぼんやりと考えていた。今回の用事も、いつものようにすぐ済むものだと疑いも無く信じながら。


◆3


 教導院は帝都の中枢にあり、巨大な白塗りの四角い建物が一区画に詰め込まれていた。角砂糖を積み上げたような不安定で奇妙な外観。しかもその設備のほとんどは地下深くにある。メルヴィはアーサーに導かれてエレベーターで地下深く潜った。

 いくつかエレベーターを乗り継いで目的の第七セクションへと辿りつく。もちろんメルヴィは初めて来る場所だ。むき出しの鉄骨やダクト、配線で通路はごちゃごちゃしている。錆びたゲートがあり、やはり朽ちた看板に「第七セクション」と記されている。

「待ち合わせはここゲート下だよ、メルヴィお嬢。じゃぁ僕はまだ仕事があるんで」
 そう言ってアーサーはどこかへ飛び去ってしまった。メルヴィは時計を見て時間を確認しようとするが、すぐ声がかかった。

「メルヴィ、急に呼び出してすまないね」
 その男は裸電球の揺れる通路の闇の奥からゆっくりと歩いてきた。ミクロメガスだ。彼は目玉の貼りついたターバン……教導院の制帽と、魔法使いのように詰襟を着ている。

 何年も前から知っているはずなのに、初めて会った時のまま彼は青年の姿をしていた。メルヴィはこんなにも歳を取ったのに、かつて年上に見えた彼の姿はいつの間にか年下のようにさえ見える。

「おいでメルヴィ。そんなには歩かないから大丈夫だよ」
 そう言ってミクロメガスは闇の向こうへ歩いていく。メルヴィは駆け足で彼の後をつける。通路は裸電球の明かりが点在していて、まるで夜の通りの街灯のようだった。

「ヴォイド・ジェネレータを知ってるかい? メルヴィ」
 ミクロメガスが話題を振ってきた。これからする仕事と関係があるのだろうか。ヴォイド・ジェネレータは帝都の発電システムの中核を担う設備だ。詳しくは知らないが。

 そう返すと、ミクロメガスはにこりと笑って振り返った。そして一つの厳重な扉の前で立ち止まる。彼は手のひらを扉にかざした。
「この第七セクションではヴォイド・ジェネレータをはじめとしたヴォイド・システムの研究を行ってるんだ」

 手のひらが扉に触れると、一瞬扉に不思議な文様が浮かび上がった。そしてギシリと音を立てて扉が横にスライドする。ミクロメガスはその中に入り、メルヴィを手招いた。メルヴィは中に入ると、あっと声を漏らした。

 そこには、巨大な空間があった。そしてその空間を埋め尽くすほどの……巨大な暗黒球が宙に浮いていたのだった。



――暗中模索#2


◆1


 その空間は実験設備のようで、あちこち鉄骨やダクト、配線がむき出しになっている。下の方に作業着を着た研究員やローブを着た魔法使いが右往左往して機器を操作している。扉をくぐるとそこは足場になっており、下の床に続く階段が伸びていた。

 宙に浮かぶ暗黒球は表面がぼんやりとしていて光沢は無い。
「これが、ヴォイド・ジェネレータですか?」
 メルヴィはミクロメガスに訊いてみる。彼はにこりと笑って頷いた。そして階段を下りていくのでメルヴィはそれに続く。

「もっとも、これは実験的な設備でいまは発電はしていないし活性化もさせていないよ。今日はこの中に用がある」
「中……? 中に入れるの?」
「ああ。入れるさ。大丈夫、僕と一緒なら危険は無いよ」

 下の作業員はミクロメガス達を気にすることなく作業に没頭している。時折近くにいる者が帽子を取って挨拶した。ミクロメガスは右手を上げて挨拶を返す。そしてメルヴィに説明を始めた。

「このヴォイド・ジェネレータはヴォイド鉱を精製して作られる……ヴォイド鉱は聞いたことがあるだろう。この時代を司る神、混沌神ベルベンダインが作った物質だ。ヴォイド鉱の純度を上げていくと、ベルベンダイン神そのものに近づいていく」

「そして、その純粋な結晶たるこのヴォイド球はベルベンダイン神へと辿りつくゲートでもある。ベルベンダイン神はとても強力な女神だ。この時代、濁積世を創造した女神だからね。だからこそ、ヴォイド球はとてつもないエネルギーを生成することができる」

 メルヴィは黙って聞いていた。つまり、このヴォイド球の中へ入ることで、ベルベンダイン神に干渉するのだ。教導院は様々な神と交渉を行うが、主神エンベロードと副神ベルベンダインはその中でも特別扱いだ。

「ベルベンダイン様に何か用事があるのですが?」
「さぁね……ベルベンダインは君を指名し会いたいと言ってきたんだ」
 それは驚くべきことだった。ベルベンダイン神は濁積世の創世に失敗し、下界の民と一切の干渉を断っているのだ。

 力を失いつつある神々の中でも、ベルベンダイン神はいまだその力をほとんど失わず保っている。だからこそ、この濁積世の副神として神々に選ばれたわけだ。その力を……どこかに隠れてしまったベルベンダインの力を人々は何としても利用しようとした。

 そのため教導院という政府の期間やベルベンダイン教導体といったギルドが作られている。そこまでしても、ベルベンダインを召喚することはおろかメッセージすら年に数回得られればいい方というほど彼女に干渉することは難しいのだ。

 そのベルベンダイン神自ら、干渉を持ちかけたという。これは異例中の異例の事態だ。ミクロメガスが言うには、こんなことがあったのは人類帝国建国から続く教導院の歴史の中でも数回しか無い。メルヴィは心中複雑だった。だが呼ばれた以上行かなくてはいけない。

「ヴォイド球の中に入ったことはあるけど、普通にしていればいいよ。危険は少ない……と言ってもベルベンダインの領域だから、彼女の思うままだけどね。危害を加えたいならもっと単純な方法がいくらでもあるさ」


◆2


 中空に浮かんでいるヴォイド球に侵入するため、銀色の錆びたタラップが運ばれてきた。ミクロメガスは何のためらいも無くタラップを登っていく。メルヴィは戸惑うばかりだ。
「どうした? 来なさい。心配はいらないよ」

 意を決しメルヴィもタラップを登る。ミクロメガスはヴォイド球の表面にゆっくりと右手で触れた。それはまるで霧に沈むようにゆっくりと黒い靄の中に消えていく。
「ほら、大丈夫だ。二人で一緒に行くよ」
 そう言ってメルヴィを招き寄せる。

 メルヴィも恐る恐るヴォイド球の表面に手を伸ばす……が、まだ勇気が出ないようだ。ミクロメガスはふっと笑い、メルヴィの肩を掴んで抱き寄せた。
「あっ」
「行くぞ!」
 そしてそのまま一気にヴォイド球の中へ身を投げる!

 2、3歩踏みだすと、そこは奇妙な空間だった。長い、真っ直ぐな薄暗い通路の途中に二人はいた。木で張られた通路に電気の明かりが弱弱しく灯っている。壁には黒く塗りつぶされた絵が額に入っていくつも飾られていた。

 ミクロメガスはメルヴィの肩から手を離し、ずいずいと通路を歩いていく。不安になりながらもメルヴィはその後ろを歩いた。床のカーペットは長年踏みならされたように薄くぺたんこになっていて薄汚れている。

「この先にいるのですか?」
「誰が?」
「その……ベルベンダイン様が」
 ミクロメガスは振り返ると、やはり柔らかく笑って言った。
「もうここは彼女の体内だよ。後は……彼女が心を開くのを待つだけさ」

 通路を道なりに進むと、ようやく曲がり角が現れた。そこからの通路はかなり入り組んでいた。道はいくつも枝分かれをしていて、たくさんのドアが壁に並ぶ。階段を何度も登ったり降りたりしてミクロメガスはずいずいと先へと進んでいく。

「あの……道が分かるんですか?」
「いや、適当だよ」
 ミクロメガスは無造作に傍の扉を開いて中へ進んでいく。
「歩く必要はないけど……歩いた方がいい。そうやって僕らのことを見ているんだ、ベルベンダインは」

「彼女は決して自分から心の中に招き入れようとはしない。相手が自分の中に踏み込んでくるのをいつも待っているんだ」
 そのとき、通路の陰に誰か少女のような白い影が横切った。ミクロメガスはそれを見て、初めて神妙な顔になる。

「これは……まずいな」


◆3


 ミクロメガスはすぐさま帰還を提案した。ポケットからカードの束を取り出すと、一枚一枚床に並べていく。それは放射状に二人を取り囲んでいた。彼はメルヴィに非常に危ないと言った。だがメルヴィにはそれが何なのかいまだに飲みこめずにいた。

「ミクロメガス、何が起こったの……? 説明してよ」
「この空間はベルベンダインの領域のはずだ。だが……いま誰かに干渉を受けている。ベルベンダインほどの強力な神に干渉できるのはそう多くない」

 赤いチョークをポケットから取り出したミクロメガスは、それでカードとカードを線で繋ぎ複雑な文様を床に描いていく。カードに書かれた不思議な文字がそのたびに赤く明滅した。
「干渉って……何で今に限って」

「僕たちはいま非常に危険な状態にある……ベルベンダインの心に侵入するため、心の防壁を取りはらっているんだ。彼女の領域にいるなら別に危険は無いが、その領域が犯されている」

「混沌神に干渉できるのは混沌神だけだ。おそらく……イミドア神。恐ろしい神だ。力を失ったはずなのに、また復活したのかもしれない」
 その名を聞くと、メルヴィは背筋が凍る思いがする。

 イミドア神は有名な神だ。男神でも女神でもなく、姿は刻々と変化し、その思考はかき混ぜた卵のようにめちゃくちゃだ。この世に災いをもたらすという……それ以上に、メルヴィは記憶の奥に何か引っかかる物があった。それが何かまでは分からないが。

 ふと、メルヴィは誰かの視線を感じて天井を見上げる。ミクロメガスは魔法文様を描くのに忙しく、それに気づかなかった。メルヴィは見上げた視線の先で……それと目が合った。血まみれの少女が、天井がらぶら下がって立っているのだ。

 メルヴィは息がとまる思いがした。全身の神経が粟立ち脳が危険信号を発する。血まみれの少女は口が裂けそうなほど笑いながらじっとメルヴィを見つめていた。メルヴィは心が覗かれる感触を感じた。心がめちゃくちゃに掻き乱されそうな、渦のような感触。

 次の瞬間、メルヴィに心に電流が走った。目から火花が散り、血まみれの少女は少し嫌な顔をする。次々とメルヴィの身体から火花が散り、七色の光の粒子を零した。ようやくミクロメガスが気づき、メルヴィを見上げる。

 メルヴィの身体は硝子が砕け散るように粉々の破片になり、破片は火花を散らして消えていったのだった。



――暗中模索#3


◆1


 気づくとメルヴィは狭い部屋に横たわっていた。窓も扉も無く、木の板の壁で仕切られた粗末な部屋。天井から裸電球がぶら下がり、弱弱しい光を明滅させていた。家具も無く、四方の壁には無数の額が飾られている。

 額の中には黒い絵の具で無造作に塗りつぶされた絵が飾ってあった。その絵は大小さまざまだったが、それも同じように塗りつぶされているのだ。メルヴィはゆっくりと身を起こす。部屋の隅には黒い靄のようなものがあった。

 靄はぼんやりと人の形をしていた。長い髪の女性で。苦しそうな格好で這いつくばっている。
「誰……?」
 メルヴィは恐る恐る声をかけてみる。

 その瞬間、靄の表面にいくつもの眼が出現し、じろりとメルヴィを見た。メルヴィはひっと悲鳴を上げて後ずさる。だが、やがて眼はゆっくりと閉じ、優しい声が脳裏に響いた。
「わたしは……ベルベンダイン」

「あなたが私を呼んだの?」
 ベルベンダインはゆっくりと話を始めた。彼女はまずイミドアの干渉を詫びた。イミドアはかなりの力を取り戻しているらしい。それはベルベンダインの予想を越える速さだった。

 黒い靄はやがて集まり美しい女神の姿となった。肌は青白く透き通り、長い髪がさらさらと床に広がっている。ただ彼女は苦しそうに這いつくばっている。顔を床につけていて表情は窺えない。

「ここは月です。月の中にある私の部屋です。メルヴィ、あなたは月を目指していますね。あなたの精神を特別に召喚しました」
 月……メルヴィは息をのんだ。メルヴィの秘密にしている夢。それは月へと辿りつく夢だった。

「あなたの夢が何故あなたの中に芽生えたか、その理由を考えたことはありますか?」
 メルヴィはその問いに答えることが出来なかった。メルヴィは確かに月に行きたい。だが、それはとても本能的な欲求で、理由を考えたことは無かったからだ。


◆2


 メルヴィはその月へと辿りつくことがたくさんの幸せを生む道だと予感していた。それもやはり本能的なものではあったが、それを思うたびメルヴィは幸せな予感に浸れるのだ。そのことをベルベンダインに伝える。ベルベンダインは黙って聞いていた。

 ベルベンダインはしばらく黙っていた。だが、意を決したように呻きながら、やはり透き通った優しい声で返事をした。
「いいでしょう。メルヴィ。ひとは幸せのために生きるものです」

「ただ、覚えておいてください。幸せの根源は本能ですが、あなたの幸せは運命が決めたものです。あなたの夢は偶然ではありません」
 ベルベンダインの声色は次第に苦しく、絞り出すような声に変わっていく。

「あなたはいわば鍵です。鍵の存在する理由は鍵を開けるためです。それが……ブルーメサイアと呼ばれるものの存在意義です」
 ベルベンダインは伏せていた顔をメルヴィの方に向けた。その顔は……黒く塗りつぶされている。

 メルヴィは息を飲んだ。ブルーメサイア……その言葉はどこかで聞いた。ミクロメガスが教えてくれたのだろうか、そんな記憶がある。メルヴィの夢には運命の思惑があるという。ただ、メルヴィ自身はそんなことは気にしていなかった。

 おいしい物を食べるのは楽しい。寒い日に熱い紅茶を飲むのは楽しい。景色のいい道を散歩するのは楽しい。好きなひとと手をつなぐのは楽しい。……すべては本能の決めたものだ。誰もそれに疑問を抱かない。

 それと同じように、メルヴィにとって月への旅を夢想するのはとても楽しいことだったのだ。周りのひとと違う感覚だということは昔から分かっていた。それがはっきりした。そういう意味で自分は特別だったのだ。

 昔からそれはあまり他の人には理解されなかった。最初の渡り鳥が、何故住処を離れ遠い地へと飛び立ったのか。その理由を考えたことはあるだろうか。それは突然変異的な本能であったろう。馬鹿にされたかもしれないが、それは当人にとっては限りない幸せだった。

 むしろメルヴィはその運命の思惑に勇気すらもらった。ベルベンダインはメルヴィの夢は仕組まれたものだと語った。それすらもメルヴィにとっては喜ばしいことになる。自分の夢が……誰かのためになるというのだ。月へ行くだけなのに。

「思いは力になります。ひとは幸せのためなら無限の力が湧く時があるのです。無限の思いは無限の魔法を生みます。その力を……神々は求めています」
 ベルベンダインはゆっくりをメルヴィの方へ這いずってきた。顔は黒く塗り潰されているが、どこか微笑んでいるように見えた。

「このことをあなたに伝えるのには勇気が要りました。ただ、あなたが幸せを捨てないように……それは大きな脅威でした。もう……10年が過ぎたのです。時は幸せを消し去ります。時は情熱を腐らせます。時は……諦めを肥大させます」

「私は月に行きますよ。それがあなたたちの目的なんでしょ? 信じてよ」
 メルヴィは優しくベルベンダインの肩に触れた。そのときベルベンダインの肩が虹色に光り、鈴のような笑い声が小さな部屋に響いた。


◆3


「メルヴィ、あなたの……私たちの夢を遮る障壁はいくつもあります。あなたの手助けをしましょう」
 そう言ってベルベンダインは身を起こすと、両手を広げてメルヴィを誘った。

「おいで、メルヴィ。大丈夫。そんなに強い力ではないよ。ただ、あなたの魔法をもっと使いやすくするだけ」
 メルヴィは恐る恐るベルベンダインの懐へ歩み寄る。

 一歩一歩近づくたびに、メルヴィの腕に埋め込まれたシリンダーが熱を帯びて疼いた。シリンダーは魔法を使いやすくするため身体にインプラントする器具だ。メルヴィはシリンダーの力を借りて、市民用に調整された量産魔法を使うことができる。

 歩み寄るたび、服の中で何か粘液が滲むのがわかる。メルヴィはそれがベルベンダインの力だと気付いた。膿が出るような感覚だが、不思議と痛みは無くむしろ快感さえ感じる。メルヴィの袖から紫色の液体が滴り落ちた。

 身を投げるようにメルヴィはベルベンダインの胸元に飛びこんだ。ベルベンダインは彼女を抱きしめ、耳元で囁く。
「あなたを狙っている者がいます。混沌神のひとり……イミドア。しかし、彼の目的は果たされないでしょう」

「あなたはたくさんの者に守られています。記憶の果てに置き忘れた者たち、命を落とした者たち、そして神々たち……あなたは重大な使命を帯びているのです」
 そしてベルベンダインはメルヴィを強く、強く抱きしめた。

 メルヴィは口から、耳から紫色の粘液を噴き出し悶絶した。痛みは無い……むしろささやかな快感が彼女を襲う。ベルベンダインはさらに彼女を抱きしめる。メルヴィはそのままスポンジを握りつぶしたように紫の液体を流し、くしゃくしゃになった。

 壁にかかった、黒く塗りつぶされた絵に無数の目が出現し、視線を交わす。ベルベンダインの身体は折れ曲がり、髪の毛の塊のようになった。やがてパチパチと裸電球が明滅し、部屋は闇に包まれた。



――暗中模索#4


◆1


 暗いヴォイド球の表面が波打ち、球体の下部に黒い靄が滴り落ちた。研究者たちは作業を止めてその様子に見入っている。彼らの一部が計器を見るよう命令を飛ばす。ヴォイド球は空中に浮遊しているが、水が漏れだすように下に影を溜まらせ始めた。

 次の瞬間、重い大きな物がヴォイド球から排出され影に落ちた。メルヴィだ。彼女はゆっくり立ち上がると3回ほどむせた。そのたび煤のような暗黒物質が肺から出される。溜まった影は霜が溶けるように揮発していった。

「いってて……戻ってきたのかな……ぐは!」
 彼女の背中にさらに重い物が落ちてきた。続いてヴォイド球から排出されたのは、ミクロメガスだ。
「やぁ、ごめん。探したよ」

 影も黒い滴りも今や完全に消え、じわじわとヴォイド球の振動は収まっていく。ミクロメガスはメルヴィの背中から降りると、メルヴィを抱き起した。
「急に消えたから焦ったよ。ベルベンダインに召喚されたんだね」

 二人は研究者に引っ張られ、ヴォイド球から離れた。研究スペースの机が並ぶ場所、そこで二人はパイプ椅子に座らされた。即座に様々な計器を身につけさせられる。
「きゃぁ、背中をめくらないで!」

 二人はあっという間にたくさんのコードに繋がれてしまった。ヴォイド球の人体への影響を調べるという。
「メルヴィ、ベルベンダインに会えたんだね。それは良かった。今日はこれでおしまいだよ」

「何を言われたか、聞かないの?」
「プライベートな話だろう。詮索する必要はないさ」
 そう言ってミクロメガスはヴォイド球に視線を逸らした。ヴォイド球の振動は弱くなったものの、まだ微弱に継続している。

「あのね……ミクロメガス、あなたも月へ行きたい夢があるんでしょ」
 メルヴィは小声で彼に囁いた。ミクロメガスは振り返り、ウィンクで応える。そして研究員に向かって叫んだ。
「戦闘警戒だ! 各自安全な区画へ避難しろ、お客さんだ!」

 ヴォイド球の振動は再び活性化し、また球体下部に影が滴り始めた。メルヴィは動揺する。二人はコードで繋がれているのだ。これを解いて逃げていいものか……その時二人を守るように灰色のローブの魔法使いが現れた。

 魔法使いは3人いた。小柄な体で、女性に思える。顔はフードに隠れて見えなかった。
「メルヴィ、安心して。僕の部下だよ」
 とうとう、球体から人間のようなものが排出された。

 それは、狂ったような笑顔をした、異形の怪物だった。


◆2


 人間のような姿をしているが、肩からは2本ではなく4本の腕が生えていた。女性のように胸が膨らんでおり、顔つきも女性のようだった。だが、その頭はいくつもの釘が刺さっており火花が散っている。腰から下はなく内臓を引きずっている。

 メルヴィは息を飲んだ。その顔は、球体の中で見た少女の物だった。両目からは赤い涙を流し、狂ったような笑みを浮かべている。そしてその異形の怪物はゆっくりとこちらへと這いずってくるのだ。その姿は刻々と変化していく。

 ミクロメガスは落ちついてメルヴィに言った。
「あれは混沌神イミドアの手先だよ。球体に侵入していたんだ……でも大丈夫。あれは弱いやつだ」
 灰色のローブの魔法使いは3人とも素早く動き出す。

 魔法使いの3人は素早く3方から化け物を取り囲むと、ローブの下から剣を抜いた。細く、銀色に輝く剣だ。そして切っ先を化け物へ同時に向ける。次の瞬間、紫の稲妻が切っ先から放たれ、化け物を焼きつくす。

「ギエエエ、エ……イヒヒヒ」
 黒コゲになった化け物はしばらくもがいていたが、呆気なくその動きを止めた。3人の魔法使いは一糸乱れぬ動きで同時に剣をローブの下に納め、どこかへ歩いていった。研究員たちもミクロメガスの合図で持ち場へ戻っていく。

「どうして……わたしを狙うの? イミドア神は……そんな神じゃないのに」
 伝説に伝わるイミドア神は気紛れの神だ。災いをもたらすが、一人を延々と狙うようなことはしない。しかしベルベンダインはイミドアがメルヴィを狙っているという。

「大丈夫。大丈夫さ、メルヴィの夢は叶うよ」
 ミクロメガスはそう言っていた。メルヴィは強い不安を感じずにいられない。でも、メルヴィは信じるしかないのだ。

 大きな力が動いている……その流れを感じながら。


――暗中模索 エピローグ


 帝都の日常は過ぎていく。相変わらず工場は黒煙を吐き空を曇り空に染め上げる。街中を魔法使いが行き交い、教導院の仕事は今日も山積みだ。メルヴィは事務室でひとり残業していた。しかし仕事はとっくに終わっている。

 教導院の複雑な建物の中をトロッコが疾走し、その振動で天井からぶら下がった電球が揺れる。ゴォーッという騒音はもう聞きなれて何も感じない。そもそも何の目的で動いているトロッコなのかも分からない。メルヴィは机の上でメモと格闘している。

 メモには複雑な式が書かれていた。毎日少しずつ書きためている魔法の計算式。メルヴィは徐に立ち上がった。メモを掴み、部署の電気を消して地下へ向かう。ミクロメガスから貰った秘密の部屋へ行くのだ。

 いつまでもこの日常が続くような感覚が続いていた。しかし、物語に必ず終わりが来るように、メルヴィの日常も終わりへと近付いている。メルヴィの長年書き続けていた計算式も、とうとう終わりに近づいていた。

 夢にも必ず終わる時が来る。夢が叶うか叶わないかは別として、必ず終わりが来るのだ。メルヴィはおんぼろエレベーターを降り、鉄骨と配線がめちゃくちゃに絡み合った狭い道を進む。トロッコの過ぎ去る音が遠くで聞こえる。

 通路の先には錆びた鉄扉があった。鉄塊のような無骨なカードキー装置にメルヴィのカードを入れる。そしてハンドルをゴリゴリと回した。そして、重い音を立てて鉄扉の鍵が開く。メルヴィは中に入ると部屋の電気をつけた。

 部屋の中央で明かりに照らされているそれは、奇妙な扉だった。扉だけを壁から引き離したような、扉だけが部屋の中央にある。それは、いくつもの機械が貼りつき結晶のシリンダーがいくつも扉の土台から伸びている。

 メルヴィは扉と繋がっている電源の電圧を確認した。この扉は電気を毎日少しずつシリンダーへ蓄積しているのだ。一見そうは思えないが、数年がかりでためたこの電力は信じられないほどの蓄積量になっている。

 扉には机が接続されており、メルヴィはその机に座ってコンソールを開いた。緑の光が画面からあふれ、システムを起動させる。そしてメルヴィはメモを頼りに、今日の分の計算式を入力し始めた。メルヴィはこの生活を何年も続けている。

 メルヴィの構築した計算式は完成に近づいていた。もうすぐ、この巨大なシステムは完成する。このことを知っているのはミクロメガスとメルヴィだけだ。この装置が完成したとき、メルヴィは……月へ行けるのだ!

 メルヴィは今日の分の計算式を入力し終え、コンソールを閉じた。彼女は立ち上がると、一回だけこの月面転移装置を振り返った。機械は何も語らず、静かにそこにあるだけだ。メルヴィは部屋の明かりを消す。

 鉄扉を閉める音は、トロッコの駆け抜ける騒音にかき消され闇に消えた。


――暗中模索 (了)












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