――最後の夢


 重い足音が響く。土を踏みしめ、小枝を踏み折り、地面にえぐれた足跡をつける。彼は疲れていた。歩みは次第に重く、ゆっくりになっていった。血の雫がぽたぽたと落ちて足跡を濡らす。息は嵐のように深く重々しく、勢いは湯気のようにか細い。彼は……疲れきっていた。

 彼の頭には2本の曲がった角があり、その頭はまるで牛のようだった。彼の種族はミノタウロス。戦うために生まれてきた種族である。しかし巨大な斧を振るうその腕は傷つき、打撲や創傷で血がにじんでいた。その生まれ持った頑強な肉の鎧もまた、同じだった。彼は戦士だった。

 だが、商売敵との勢力争いから始まった闘争で彼は酷く傷つき、名も知れぬこの地方へと逃げのびてきたのだ。彼にとって知らない土地ではあったが、この地方にも人は住む。近隣の村の斥候が彼の動きを監視していた。手負いとはいえ、このミノタウロスは村の強大な脅威なのだ。

 傷ついたミノタウロスは、森の中を進んでいた。森を切り開いただけの野道がどこまでも続いている。彼はこの先がどこに続いているか知らなかった。でも、何か休息できる場所がこの先にあるような……そんな気持ちで足を進めていた。やがて、森の中に廃屋が一軒見えた。

 ミノタウロスは目を細め、斧を杖にゆっくりと廃屋に入っていった。廃屋は無人であり、薪や藁がたくさんあって休むには丁度いいものだった。屋根の穴からは光の筋が漏れていたが、雨をしのぐには十分だろう。彼は藁の塊へ身を横たえ、目をゆっくりと閉じ眠りについた。

 村の斥候はその一部始終を森の影から監視していた。そして、詰所へ向かって音もなく走りだした……。


――


「困ったことになったぞ、なんとかならないのか」 
 村ではすぐさま対策会議が開かれた。村長と、村の議員たち10人ほどで狭い村民議会は埋まった。

 手負いとはいえミノタウロスの、しかも戦士となれば腕利きの冒険者でなければ人死にが出るだろう。交渉案もあったが、ミノタウロスは異国の種族。言葉などわからなかった。

「ひょっとしたら帝国標準語を……」 
「それで失敗したらどうする! 死ぬぞ!」 
 議会は紛糾していた。平和な村に現れた突然の脅威。対処するすべなど限られていた。
「冒険者は……村に冒険者は来ていないのか!」 
「いま調べて……」 

 そのとき、村の役員が議場に現れた。走ってきたのだろう、肩で息をしている。
「いました! 一人だけですが……冒険者が!」 
 村長は興奮して立ち上がり、すぐ連れてくるよう命令した。だが、その必要はなかった。役員の後ろに……涼しい顔で追いついていたのだ。

「こんにちはー。ミノタウロス……ですか」 
 その冒険者……意外にも娘であった。若いようであったが、それなりの場数を踏んでいるであろうことはそのくたびれつつも確かな品質の装備で分かった。魔法の力を持ったアクセサリーを多く身につけている。

 村長は、倒せるのかと少し抑え目の声で打診した。彼には、とても彼女が台風のような暴力性を持つミノタウロスと戦えるようには見えなかったのだ。
「倒せますが……平和的に行きましょう、平和的にね」 
 そう言ってエメラルドのフレームでできた眼鏡をかけたのだ。

「この眼鏡は言葉を介さずとも意思疎通が取れるものであります。これをつけて交渉してきましょう。もし戦いになっても心配ご無用ですが」 
 そう言って彼女は力こぶを叩くようなジェスチャーをして笑った。余りにも落ち付いているので村長は詐欺師かと思ったほどだ。

 だが、迷ってはいられない。すぐさま村長は冒険者の娘を廃屋へと派遣した。報酬は村長のひと月分の給料と同額ほどだった。相場的には妥当だろう。彼女は契約を交わすと、風のように走りだした。その余りの早さにだれも追いつけない。とうとう村の全員は置いていかれてしまった。

 道案内も置いていかれてしまったのだ。彼女が真っ直ぐ目的地を目指せるのは他でもない、彼女の身につけているエメラルドの眼鏡の力だ。彼女は眼鏡をつけたとき、廃屋までの道と基本的な情報を感じ取っていたのだ。

 冒険者の娘は音もなく廃屋に辿りつき、その外側から中の様子をうかがった。寝息も聞こえないほど静かに、ミノタウロスが横たわっていた。血の生臭い匂いを感じる。死んでいるだろうか? いや、エメラルドの眼鏡は彼の微弱な意識の振動を感じ取っていた。彼は夢を見ているようだった。

 心臓の鼓動、生命力の消耗までも完全に感じ取っていた。彼はもう長くないだろう。娘は静かに廃屋の中に入っていった。日は沈み始め、屋内を大きな影と赤い光で満たす。彼は娘に全く気付くこと無く夢を見ていた。それは美しい夢だった。

 夢の中で彼はとても軽い足取りで野を駆け巡っていた。朝日がまぶしく世界を満たし、朝露が美しく光った。山麓にはうっすらと雪が残る春の景色。緑が芽吹き、小川には雪解け水が流れていた。そして彼はまるで子供のように走り疲れて、草原の丘に横になって居眠りを始めた。

 緑の丘には花が咲き乱れ、草は勢いよく伸び彼を覆い隠すほどだった。太陽は次第に高くなり、彼を温かい光で包みこんだ。彼は静かな寝息を立てて、夢のまた夢を見ていた。それは彼の求めた最後の楽園だったのだろうか――そして、彼は息を引き取った。

 娘はそっと彼の傍に座り、闇に包まれていく彼の夢を見ながら彼に祈りを捧げたのだった。











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