お題:海の声・君の足音・夕暮れ

 大切にしているお土産が一つあった。それは大きな巻貝で、白くて角がたくさん生えていた。いつだったか、伯父さんが海外旅行に行ったときのお土産だった。それは耳に当てると波の音が聞こえるという、ありふれた土産ものだった。

 幼いころから山の中で育った僕にとって海は憧れだった。車で旅行に行けばすぐ海は見えてくるが、そんなすぐ手に入る海なんて求めていなかった。はるか南の海、夏風のふるさと、ヤシの木が並び果物が枝もたわわに実る楽園の海……それが僕の求めていた海だった。

 僕は独身で、海外旅行なんて滅多に行かない。一人で行っても寂しいだけだし、男ばかりで行っても虚しいだけだ。それに仕事だって忙しいし……そんなこんなで、僕は楽園とは程遠い生活を送っていた。何年も、何年も。

 ある夕暮れ、僕は久しぶりにその土産を見つけた。いつも棚の上に鎮座していて、手に取ることはなかった大きなその巻貝。だが、今日はなんだかその巻貝を手にしてみたくなったのだ。夕暮れの中、すこしセンチメンタルな気持ちになったせいもある。

 僕は長い間楽園を見失っていた。自分の心休まる空間を失い、忙しい現実世界の中で疲れていたのかもしれない。僕はこんな冷たい風に吹かれてはいたくなかった。楽園の海、南の国でビーチに横になりながらうたた寝をしていたかった。わがままかもしれないが、それが僕の数少ない夢の一つだった。

 巻貝を耳に当てて心を落ちつかせる。いま僕は楽園にいるのだ。夕暮れのビーチに横になっていた。砂浜は熱を帯び、背中や太ももを温めてくれる。波の音がいつまでも響いていた。ああ……このまま目を閉じていたい。夕陽は赤く水平線に沈もうとしているが、その時間はまるで永遠のように続いていた。どこまでも波の音に抱かれ、僕は現実を忘れた。そのとき、僕は確かに楽園にいたのだ。

 不意に足音が聞こえる。僕は目を開いた。僕はビーチにいた。楽園を求める余り本当にビーチに来てしまったのか。スーツ姿のまま僕は砂浜に寝転がっていた。砂を踏む足音が背後から聞こえてくる。

 僕は背後を振り返った。そこには水着姿の女性がいた。赤いビキニを着て腰にはパレオを巻いている。彼女はにこりと笑って、僕の手を引いた。僕はその手にひかれ、森の奥へと導かれていった。そのとき僕は、砂浜に貝を忘れたことに気付いた。

 貝を忘れたんだ……そう言って僕は彼女の手を振りほどき、砂浜に戻ろうとした。しかし砂浜はいつになっても見えてこない。深い深い森の中、僕は……。

 そこで僕は目が覚めた。家の中、貝を手にしたまま居眠りをしていたようだ。不思議な夢を見た気がする。詳しくは覚えていないが。なんだろう、頭がガンガンする……そのときミステリアスな笑みを浮かべた妻が部屋に入ってきた。何でも新婚旅行先の相談をしたいという。彼女は……。

 南の島に行きたいと言っていた。










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