騎士とお菓子とイノシシの森#1 狩りに行こう


◆1


 ザリガニ騎士団の午後はいつもまったりとしている。優しい秋の日差しが背中を温める中、近くの渓流で釣りをする騎士の姿も見える。野営地は涼しい森の中にあった。灰土地域南南西部、温帯の森が心地よい場所であり、避暑地として人気も高い。
 森の香りに、甘い匂いが加わる。

「今日のクッキーの出来は、何点でしょう? ヒント。今回は砂糖の分量を間違って多くしちゃった」

「私は甘いのが好きだから120点ね」

 二人の男女がオーブン……4つの足が生えている魔法仕掛けのオーブンの前に座っている。一人は金髪の少年、もう一人は長身の女騎士。

 オーブンを開けて、焼き立てのクッキーを一つ齧る女騎士。ブルブル震える四足オーブン。女騎士は目を閉じて味わう。

「どう?」

「120点ではないね」

 残念そうな顔を見せる女騎士に、少年は不安になる。直後、満面の笑みを見せる女騎士。

「130点だよ」

 少年は喜びでいっぱいになるが、喜びを表すのが恥ずかしくて顔を伏せた。そのとき、顔色の悪い技師が痩せた手足をひょろひょろと振ってやってきた。

「ルムルム、お爺がお呼びだよ」

 少年……ルムルムは明らかに喜びの表情を曇らせる。暗い木々が風でざわざわと揺れた。

 ルムルムはお爺……ザリガニ騎士団の長の元へと歩いていく。その足取りはとぼとぼと気の進まないようだ。森の中の野営地の真ん中、武器や蔵書を保管する場所。5台の馬車が止まっており、そのうちの一台、武器庫にお爺はいた。
 お爺は馬車の縁に腰かけ武器のチェックをしている。

 くすんだいぶし銀の板金鎧。顔は兜の奥で見えないが、しわの深い老人の顔であることは知っている。兜の顔に張り付くような赤いザリガニの細工。

「おお、来たのか。手伝ってくれんかの」

 ルムルムは返事もせずに荷台に乗り込み、作業を始めた。少年でも何をすればいいか教えられている。

「シリンダーの破損は見逃してはならぬぞ。インプラントと違い、不調は目で見るしかない」

 老騎士は背中を向いたまま忠告を続ける。ルムルムも、背中を向けて言われたとおりにチェックする。

「騎士って、めんどくさい。砂糖の分量を間違えても死なないお菓子の方がいい」

「……お前に謝りたいことがある」

 思わぬ台詞に、ルムルム少年は驚いて振り向く。老騎士は背中を向けたまま続ける。

「お前を騎士にしようと思ったことを……孫の人生を勝手に支配しようとしたことを、謝りたいのだ」

 森に吹く風が止まり、痛いほどの沈黙。

 ルムルムが口を開く。

「なんだよそれ」

 彼は騎士団の団長を継ぐ者として期待されていた。過酷な訓練、自由時間は少なかった。最近、お菓子を作ってみないか? と言われた。他にも様々な道を提示される。その意図が分かった。

「なんだよそれ、僕に騎士は無理だっていうのかよ」

「……今日はこの話は無しにしよう」

 口では嫌だと言っても、実際に騎士になれないと知ると、激しい劣等感がルムルムを襲う。老騎士は話題を変えた。

「そうだ、せっかく森に来たのだ。イノシシを狩りに行こう。いろいろな経験をするんだ、その中で自分の好きな道を見つけるといい」


◆2


 森の奥へと足を踏み入れたルムルムと老騎士。老騎士はいつもの銀鎧、ルムルムは布鎧の上に鎖帷子の装備だ。二人ともクロスボウを手に、静かに森を歩く。温帯の森は気品のある鳥の鳴き声と、かすかな虫の蠢く音色で彩られていた。

「足跡だ」

 老騎士が見つける。

 ルムルムは地面を見るが、そこには下草と落ち葉まみれの地面だけがあった。足跡など分からない。

「こっちだ」

 老騎士は進んでいく。ルムルムは眉間にしわを寄せて地面を見るが、何も分からない。

(お爺は失望したんだ)

 懐に入れたクッキーを思う。こちらの方が得意だ。

「お爺。急がないの? イノシシって足はやいんでしょ」

 ルムルムの指摘する通り、老騎士は静かに歩いている。

「確かにグレイボアの足は速い。けれども、それは図鑑の知識じゃ。実際には、グレイボアは一日のほとんどを移動に費やすことはない」

 また眉間にしわを刻むルムルム。

「そう、人間だって常に全力で走っているわけではない。迷い、立ち止まり、足を引きずって歩き、時には後戻りして……ゆっくり進んでいるのだ」

「何かの教訓?」

 老騎士は照れたように兜の頭をかいた。

「年寄りは教訓を語りたくてたまらない生き物なんじゃ」

 老騎士はゆっくりと歩く。ルムルムもゆっくりと歩く。鎖帷子の装備は重く、少年のルムルムは次第に息が上がっていく。
 目の前を歩く老騎士は、70歳だというのにひょいひょいと坂道を上っていく。老騎士との背中を見上げる。ルムルムは唇を噛んだ。顔がどんどんしわくちゃになる。

 坂を上った先、少し見晴らしのいい場所。赤や黄色で彩られた秋の森は、所々葉が落ちて見やすくなっていた。遠くの木々の間に、探していたグレイボアが一匹でうろついている。まだクロスボウの射程には入っていない。

「いるな……こっちだ」

 老騎士は全く違う方向へと歩いていく。

 その理由を老騎士はそっと教えてくれた。

「グレイボアは鼻が効く。目よりもだ。風上から忍び寄ってもすぐに感づかれて逃げられてしまう。だからこうして回り道して風下から接近する」

 音を立てないように進む。鎧には消音の魔法が編み込んであるが足音はどうしても出てしまう。

 もっと魔法を使えば匂いも足音も万事解決だが、そのためだけに高価な魔法を使うと赤字である。魔法は無料ではない。
 風下からゆっくりとクロスボウの射程に入った所である。突然グレイボアがこちらを見て、引き絞ったような鳴き声を上げた。

「感づかれたか!」

 様子がおかしい、と気づいた時にはすでに相手の「魔法」が炸裂していた。秋の森を駆け抜ける猛烈な霜の波!ルムルムと老騎士は膝立ちになり、寒さに耐える。

「野生動物が何で魔法を使うんだよ!」

 悲鳴を上げるルムルム。

「逃げるぞ、ルムルム。ただのイノシシじゃないぞ!」

「わかってるよ……でも、どうやって逃げるのさ!」

 グレイボアはこちらを睨みつけ、途絶えることなく霜の波を浴びせかける。そこに隙など無かった。


◆3


 強力な魔法を放つイノシシ。グレイボアの名を表す灰色の毛皮にはびっしり霜が降りている。二人に向かって浴びせる霜の波は止まらない。それはいつまでも……二人が死ぬまで続くかに思えたが、突然それは止んだ。

「魔法が無くなったのかな?」

 ルムルムはようやく息を吐けた。

 老騎士は下半身が完全に霜に埋まり固まっている。が、生きているようだ。

「魔法はまだ続くぞ。恐らく呼吸で魔力を溜めている。普通はシリンダーから魔力を補給するが、奴にはシリンダーが無いらしい。見ろ、呼吸が荒くなっている」

 確かに、犬のように激しく息をしている。

「奴の正体が分かってきたぞ」

「……教えて」

「まず、シリンダーが無いということは、奴は人為的なものではなく偶然ああなったということじゃ。人為的ならば絶対にシリンダーを埋め込む。そして、偶然魔法を使えるようになるにはいくつかのパターンしかない」

「……何だって知ってるんだね」

「大体は憑依術か変異術によって動物になっているパターンだ。異質すぎる動物の感情に慣れずに、思考が暴走している状況じゃ。これに対応するには……」

 ルムルムはきゅっと唇を噛む。今の自分には何ができる? クロスボウも機械が凍り付いて役に立たない。

 そうこうしているうちにグレイボアは魔力のチャージを終えたようだ。再び霜の波を浴びせかけてくる。老騎士の身体が霜に沈んでいく。ルムルムは爆発しそうな思いを全身の筋肉に預け、一歩踏み出した。

「僕だってやれるんだよ……」

 膝立ちの老騎士が彼を見上げる。

 ルムルムにも分かることがあった。対処策を知っているはずの老騎士がいつまでも動かない。話すのが精いっぱいなのだ。霜によって体力を奪われている。それは銀の板金鎧のせいでもあるはずだ。鎧下や耐冷処理は施してあるが、布鎧ベースのルムルムの方が被害は少ない。

 進む。ルムルムは進む。

「僕にできることは何でもやる。これから一つ一つ覚えていくから……クッキーの焼き方とか、武器の整備とかだけじゃなくてさ、もっと、もっと覚えていくから。だから……お爺」

 ルムルムは一度だけ振り返った。

「そんな諦めた目で僕を見ないでよ」

「難しいかもしれんぞ」

 老騎士の言葉を背にルムルムは前を見る。吹き付ける霜。

「どんな困難だってクッキーを焼くより簡単だよ」

 運よく魔法の在庫が切れない限りこのままでは二人とも凍死だ。そして、それは老騎士の方が近い。足を一つ一つ踏みしめていく。たじろぐグレイボア。

「方法は一つ。人間の心を呼び起こすんだ」

「……どうやって?」

 流石にクッキーを焼くより難しい指示が来るとは思っていたが、これほど手掛かりのないものとは思わなかった。

「いまイノシシの心は揺れ動いておる」

 再び弱まり始める霜の波。次のチャージが最後のチャンスかもしれない。老騎士は言葉を投げかける。

「動物の心と人間の心がぶつかり合い、不協和音を奏でておるはずだ。それを掻き立てるのだ。人間の楽しさとか、人間の喜び、悲しみ、怒り……そういうものを伝えるのじゃ」


 騎士とお菓子とイノシシの森#2 クッキーを焼こう


◆1


 チャンスは巡ってきたが、状況は変わらず深刻だ。相手は霜の波の魔法を使う。もしかしたら運よく魔法が切れるかもしれない。。
 しかしいま目の前のイノシシ……グレイボアは激しい呼吸で魔力を補給している。つまり、まだ魔法を撃つ余裕がある。

「いくぞ!」

 ルムルムが駆けだす。

 霜の深く積もった地面を踏み抜いて、グレイボアを目指す。イノシシは突進が危険だ。股下を狙って頭を振り上げるように牙を繰り出せば、丁度足の太い血管を貫いて致命傷となる。
 ルムルムの鎖帷子と布鎧では防ぎきれないかもしれない。しかし……。

「馬鹿にするなよ、やってやるよぉ!」

 人間の感情を伝える。考えながらルムルムは進む。自分ならどうだろう。お爺と自分の感情は何がぶつかっているだろう。それを思う。

(お爺は僕に失望した……だから僕も失望した。思いは伝染するんだ。だから僕は、前に進まなくちゃいけないんだ。お爺も前に進んでくれるはずだ)

 グレイボアは静かにルムルムを見ていた。その身体は霜で凍傷を起こしたのか、血で濡れている。不完全な感情で魔法を使った反動だ。

(僕が伝えられる感情……喜び? 悲しみ? 怒り? いや……)

 ポケットのクッキーを思い出す。

(甘い、おいしい……だ)

 走りは歩きに変わった。鎖帷子のスカートをめくり、クッキーを取り出す。

「おやつにしようよ……ほら、クッキーを焼いたんだ」

 グレイボアは答えない。二人の距離はもうすぐ2メートルの距離まで縮まっていた。それこそが、グレイボアの答えかもしれない。戦いもせず逃げもしない。

 ルムルムもクロスボウを捨てる。両手を差し出して、友好のジェスチャー。これは戦争ではない。グレイボアの呼吸は元に戻っている。それでも魔法を撃たないという答え。もうひと押しが欲しい。それをルムルムは試してみた。

「クッキー作ったことある? 焦げないようにするのが難しいんだ」

 グレイボアがルムルムへ向かってゆっくりと歩いてくる。手ごたえを感じた。相手は……クッキーの作り方を知っている!

「薄力粉120グラム」

 足が止まった。目を見開くグレイボア。

「バター80グラム。砂糖は60グラムだ」

 グレイボアに、変化が現れる!

 前脚が完全に人間のものに代わっていた。細くて華奢な女性の手だ。変異術が解けてきているのだ。

「教えてくれない? あと必要なのは何かあったかな……」

 イノシシの身体が震え、背中を丸める。周囲の霜はほとんど溶けていた。

「もうすぐだ、思い出そう」

「ば……ば……」

 声を発した! グレイボアが、とうとう人間の言葉を発したのだ。背中を丸めた毛むくじゃらの人間の姿まで戻っている。
 ルムルムはゆっくりと傍により、隣に座った。そしてクッキーを差し出す。秋の森に、まだ夏の面影を残す風が吹いた。

「バニラオイル……」

「そうだ、おめでとう」

 そして「彼女」は……本来の姿を取り戻したのだった。


◆2


 ザリガニ騎士団の森での滞在はそろそろ終わりに近づいていた。長く続いていた交渉が終わり、近くの村で崇められていたアーティファクトをとうとう譲ってもらえることになったのだ。対価は惜しみなく払った。
 気の早いものは片づけを始める野営地に、甘い香り。

 四足の生えたオーブンは大人しく座っている。その前にはルムルム。そして変異術師の女。ウェーブがかったしっとりした髪の妙齢の女性だ。

「そろそろ焼けましたかね?」

「見てみる。今日は寒いからまだかも」

 手早くオーブンを開けて確認。

 クッキーは予想に反してちょうど焼けたところのようだった。匂いを嗅ぎつけたのか長身の女騎士がふらふらと現れた。

「ルムルム、クッキーちょうだい」

「セリマさんもお茶にしましょう」

「残念。あなた、お呼ばれだよ。お爺が呼んでる」

 ルムルムは老騎士の下へ向かう。森の空気は涼しく、冬へと向かう秋の気配が色濃い。虫が鳴く。鳥たちも歌う。ルムルムの足取りは軽かった。

「お爺、呼んだ?」

 今回は、自分から声をかけた。武器、資料、物資の集積地。馬車の止まる場所。

 老騎士はいつものように荷台の縁に腰かけ、装備のチェックをしていた。分解し一つ一つ点検している。老騎士の姿はいつもの鎧兜である。くすんだ銀の鎧。顔に赤いザリガニが張り付いた意匠の兜。小手は外して、作業用の手袋にかえている。

「ルムルム、あれからよく考えたんだが……」

 ルムルムは老騎士の隣、同じく荷台の縁に座る。そして、言葉に詰まった老騎士の代わりに宣言した。

「お爺、僕、騎士になるよ」

 老騎士の作業の手が止まる。ルムルムは秋の森を眺めながら彼の言葉を待った。秋は時間がゆっくり流れるように感じる。

「いいのか? ワシが押し付けた騎士を……」

「いいや、違うよ。押し付けたんじゃないよ」

 そう言ってルムルムは作業の手伝いを始める。装備を分解し、一つ一つ部品をチェックする。

「騎士の姿を、示してくれたんだよ。お爺は。今まではそれが眩しくて……」

 ルムルムは老騎士の隣で作業を続ける。それらは全て、老騎士に教えてもらったもの。同じ手順。

「お爺が示してくれる。僕がそれを真似る。これって人間の感情の伝染と同じだよね。だから、お爺は笑っていてほしいな。謝るのはいいよ」

「そうか、すま……いや、謝るのは無しか」

 持ってきたクッキーを老騎士に差し出すルムルム。突然のことで思わず身を引く老騎士だったが、すぐにクッキーを受け取って、兜のバイザーを開き食べる。

「うむ、うまい」

「だよね。僕のクッキーは消えたりしない。騎士になっても、クッキーはクッキーのまま、僕の中に残り続ける」

 静かな森の中、秋の気配。そこにクッキーの甘い香りが漂い……それは少年の心にいつまでも残っていた。


 騎士とお菓子とイノシシの森(了)










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