――水中に沈む花#1


◆1

 灰土地域の南西地方は涼しい気候の湿地帯が広がっている。ここは人類帝国の支配が及ばない未開の地でありながら、様々な知的生活圏があり、毎年多くの観光客を受け入れていた。珍しい植物、手つかずの雄大な自然、避暑に最適な涼しい気候、そして見ごたえのある多くの水上都市があった。

 水上都市は巨大な石柱を柱にして、漆喰と煉瓦でできた都市基盤が放射状に広がっている。ここの住民は計画性というものがあまりないのか、時々新しく柱を設置しては都市の周りに継ぎ足すように基盤を構築していく。

 その水中都市のひとつが、ここマガラアの街だった。深い湖を取り囲むようにドーナツ状に都市部が築かれている。ここは有名な観光都市だ。南や北や東から様々な人種・文化の観光客たちが押し寄せている。フィルとレッドもそんな観光客のひとりだった。

「今年は水中花の花が咲くらしいぜ。一晩しか見れないとあって観光客も凄いな」
 フィルとレッドはいま湖のほとりにあるベンチに座ってアイスを食べていた。眼前には広い湖が広がっていて、遠くに向こう岸がかすんで見える。彼らはこの湖に咲く水中花という花が目当てだった。

「フィル、なんでアイスなんか買ったんだろうな……寒くて凍えそうだ」
「買おうといったのはお前じゃないか」
 冷たくて頭痛が始まっているレッドとは違い、フィルは涼しい顔でアイスを頬張る。フィルの方が背が高くほっそりとしていた。

 フィルもレッドも薄いシャツにスラックス姿という普通の観光客だった。だが、彼らはこの南西地方がこんなに涼しいとは思わなかったようで、その軽装を若干悔いている。だが観光気分に乗せられて、アイスまで買ってしまっていた。

「見ろ、スキュラだ」
 フィルは観光客に交じって街を歩く巨大な亜人を見た。彼女らは普通の人間の上半身を持つが、下半身は凶暴な犬を数頭ごちゃまぜにしたような巨大な塊になっている。そのため彼女らの上半身は人混みの中でも竹馬に乗っているように目立って見える。

「彼女たちはすべて女性の種族で、水中に適応した遥か昔から生き延びている種族だそうだ」
「灰土地域ではあまり見ないな」
 じろじろ見るのも悪いので、二人は湖に視線を戻す。スキュラはこのマガラアの街の住人だ。

 スキュラは恐ろしく凶暴な種族だそうだが、こうして観光客相手に商売をしている限りは牙をむくことはない。あくまで戦場での話であり、彼女らは誇り高い戦士であるのだ。商売になるとわかり、水中花を保護して神々に祭っているのもスキュラ達の働きだ。

「水中花、見れるといいなぁ。すぐ枯れて実を落とすんだろう? 決定的瞬間ってやつさ」
「レッド、湖の水、おかしくないか?」
 レッドは目を凝らして湖の水を見た。確かに普通の水とは違う。どこか……水底が赤く濁っているのだ。


◆2

 水中花には不思議な伝説があった。水が赤く濁るとき、水中花は見ることができないと。レッドはベンチから立ち上がり柵から身を乗り出して湖を見る。確かに赤く見えないこともない。だがそれはまだ水底に沈澱しているだけに見えた。これはどうなのだろう。

 周りの観光客に聞いてみると、一部のひとはすでにそれに気付いていて落胆しているようだった。しかしスキュラの自治体から正式に通達が出ているわけではない。これはどういうことだろうか。観光客が気づいて自治体がいまだ何の反応もしないなどあるのだろうか?

「大丈夫だよ。これは水が赤くなってるわけじゃないってことさ。よくあるだろ、鉄分が多い土の池とかは底が赤くなるのさ」
 レッドはそう言うが……土壇場で花が咲かない告知がされたらしょうがないねとフィルは肩をすくませる。

「女神様のご加護があれば花は咲くさ。美人の女神に外れはないって言うじゃないか」
 そう言ってレッドはベンチに座り、近くにある女神のモニュメントを一瞥した。スキュラの氏神であり、彼女自身もスキュラである女神グレイソフィアの像だ。

 グレイソフィアは普通の美しいスキュラの姿をしており、右手に長剣、左手に睡蓮を持っている姿であらわされる。彼女はこのマガラアの街では水中花とスキュラの安全を守る女神として祀られていた。湖の地下には地下神殿があるという。

 フィルはガイドブックを少し読みあげた。何でも、地下神殿はこの湖の底の蓋になっており、湖の清掃や特殊な漁を行う祭事の際には水門が開かれ湖の水位が下がるという。そのとき地下神殿の外観や水中花の本体が見れるという。

「女神さまも頑張って水中花を咲かせてくれればいいのにね」
 この混沌の時代、濁積世は神の力がほとんど残っていないのだ。いち地方都市のマガラアの観光資源に回す余力はないということか。それもしょうがない話ではあるが。

「そうだ、自治体に聞いてみようよ。もしかしたら僕らの勘違いかもしれないし、何か対策してるのかもしれないしさ」
 そう言ってフィルは立ち上がった。時刻はもう夕方であり、観光客はみな観光を終えて宿に帰っているようだ。

 アイスを食べて話をしているうちに、辺りには誰もいなくなっていた。いや、ただ一人、スキュラにしては小柄なひとりの娘が、少し離れた場所で柵に手をかけて湖を見ていた。どこか思いつめたような真剣な表情で。

 すると、突然娘が柵を乗り越え、湖に飛び込んだのだ! 水中の種族であるスキュラではあるが、この湖は聖域のはずだった。飛びこむことなどあるのだろうか。驚いていると、さらに驚くべきことが起こった!

 必死に泳いで湖の中心を目指す娘だったが……次第にその動きは遅くなり、なんと溺れ始めたのだ!


◆3

「おい、溺れてるぞ……スキュラは水中の種族じゃないのかよ」
「いま助けられるのは……僕たちだけだね」
 そう、いまこの夕暮れの街角にいるのはフィルとレッドだけだったのだ。たまに横切る観光客も見て見ぬふりだ。あるいはそんなに大事に思っていないのかもしれない。

 フィルは辺りを見回した。ここは漁を行う祭事の際港として使うこともある公園だ。しかしボートなどはなく、水面も遥か下だ。間違って落ちたひとのためにロープや梯子があるが、もはや届かない所にスキュラの娘はいた。

 彼女は潜水しようとしているらしいが、うまく沈めないようだ。スキュラは水中で呼吸できる。しかし、今の彼女はかなり苦しそうだ。まるで普通の人間が溺れているように手足をばたつかせている。不思議なことに、彼女の周りの水が赤みを増していく!

 レッドは明らかに異常を感じていた。この湖には何かがある……そして彼女には何か目的がある! レッドはもがいているスキュラの娘と目があった。次の瞬間、彼は湖に飛び込んだ! レッドは泳ぎは得意だ。着衣水泳くらいならできる。

「レッド、ロープを持っていけ!」
 フィルは上からロープを投げる。ロープの先には重りがわりの浮きがついていて、レッドの目の前に落ちた。レッドはそれを掴み、器用に泳ぐ。今のところ何も異常はない。スキュラの娘は何に苦しんでいるのか……?

 レッドは平泳ぎの形でゆっくりと娘に近づいていった。ロープは口にくわえ、後は彼女に手渡してフィルが引っ張るだけだ。だが、湖の中心に近づくにつれ、レッドもまた明らかに異常を感じるようになる。

 水が妙に重いのだ。まるで油の中を泳いでいるように、水が身体に纏わりついていく。泳ぎの形が乱れるほど、水の重みは増しており息継ぎにも苦労するようになっていた。そして……レッドの目にもはっきり異常が見えてきた。

 水が……赤いのだ。レッドの周りの水が急激に赤みを増していく。あと少しでスキュラの娘に近寄れそうなのに、あとひとかきが届かない。遠くから声が聞こえる。フィルの呼ぶ声だ。そしてそれにかき消されそうな……小さな声。

「生贄……生贄を……お前か……」
 確かにそう聞こえるのだ!



――水中に沈む花#2


◆1

 レッドはかなり焦りを感じてきた。手足が思うように動かない。もちろん着衣水泳という状況だったが、それにしても水が重い。スキュラの娘はもう眼前に近づいている。二人の周辺の水は鮮血のように赤くなっている。決して夕日の光のせいではない。

「ぶはっ、お、お嬢さん! これに掴まれ!」
 レッドはくわえていたロープを手に掴みスキュラの娘のほうに伸ばした。娘は何故か迷ったような表情を見せたが、ロープに手を伸ばしその先を掴んだ。
「いいぞ。フィル! 引いてくれ!」

 岸の上にいるフィルは思いっきりロープを引っ張る。ロープにつかまる二人はゆっくりと湖の中心を離れていく。その間にもレッドは呼吸が苦しかったが、中心を離れるにつれその阻害と水の重さは和らいでいった。

 それから先は何の障害もなく二人は岸辺に辿りつくことができた。水面と街の土台の間には段差が大きかったが、下に続く階段があったので二人は街へと戻ることができた。レッドは下からロープを束ねてフィルに放り投げる。

「いや、何だったんだ……俺は泳ぎは得意なはずだったんだがな。お嬢さん、大丈夫かい?」
 階段を上りながらレッドはスキュラの娘を見上げた。娘は大分若いスキュラだったが、スキュラという種族はかなり身体が大きいのだ。

「ありがとう……ございます」
 スキュラの娘はどこか悲しそうな声で返した。まるであのまま溺れていれば……そんな未練を感じさせた。運悪く生き残ってしまった……そんな感情。
「どうしたんだい、いったい……ここは普通に泳いではいけない所だろう」

 フィルは階段から上ってくる二人を見て、どこか不思議な違和感を覚えた。あんなに赤い水を泳いでいたのに、二人は普通の水にぬれているようにしか見えなかったのだ。もちろん、岸辺の近くの水は透明だったので洗い流された可能性もあるが。

 この湖は聖域でみだりに泳ぐなど考えられないことであったが、目撃者は娘とフィルとレッド、そして通りすがりの観光客しかいないようだった。幸運なことに、スキュラの官憲などに見つかることはなかった。見つかっていたら少々面倒なことになっていただろう。

 レッドはベンチに座り、スキュラの娘を手招いた。娘は近寄ると、レッドは急に手を繋いでくる。驚く娘だったが、レッドはポケットから空いている手でライターを取り出すとウィンクした。そしてライターを点火させる!

 次の瞬間、ずぶぬれだったレッドと娘の身体は一瞬にして乾いてしまった!
「便利だろう? 雨に濡れたときとか役立つんだ……さて、娘さん。何をしようとしていたのか聞かせてくれないか? 悩みなら相談に乗るよ」


◆2

「わたしは……メギッサといいます」
 その娘は理由を話し始めた。フィルとレッドはベンチに座りながら黙って聞いている。メギッサの話しによると、湖は確かに赤化しているというのだ。つまり、水中花の花は咲かない。ただしこれには解決策があった。

 赤化が始まった頃、不思議な囁きがスキュラの首長に聞こえ始めるというのだ。赤化を止めたければ……生贄を捧げろと。これに従わなかった年もある。その時は湖が真っ赤に染まり、水中花は咲かなかったというのだ。

「今年もまた赤化が始まりました。自治体は……観光収入が欲しいから、生贄を捧げることにしたのです。その生贄は……わたしの姉です」
 メギッサの姉は病弱で、いまも床に伏せっている。そのため生贄として選ばれてしまったというのだ。

 メギッサは姉を助けるため、自分が代わりに湖に飛び込めば……そう思って行動に移したらしい。ただ、死ぬときになってやはり苦しくなってしまったのだ。そこを助けられたという話だ。

「本当は生贄なんてやりたくないんです。でも、誰も赤化の原因とか囁きの正体とかを突き止めることはできませんでした。グレイソフィア神の怒りだと……神聖な水中花を商売の道具にする我々への罰だとかいろいろ言われていますが……」

「神の怒りねぇ……」
 フィルは思案した。神々は、この濁積世の時代においてほとんどの力を失っている。その残された力を維持するため、信者に生贄を要求する神は珍しくなかった。ただ、今回の件についてはおかしい点がある。

 第一として、スキュラの神であるグレイソフィアが同族の生贄を欲することがあるだろうか。第二として、水中花を神聖なものとしているグレイソフィアが、その水中花を苦しめるような赤化現象を起こすだろうか。花を咲かせないというのは冒涜ではないだろうか。

「ま、僕らにまかせてよ。こう見えて、いろんな事件を解決してきたのさ、僕らは。お嬢さん、美しい君が湖の藻くずに消えるなんて悲しすぎるよ」
 レッドは甘い言葉でメギッサをなだめていたが、フィルは無視した。しかしフィルとしても、水中花を見てみたい話ではある。

「フィルよう、そう心配するなって。俺にもちょっと気になることがあるんだよ」
 そう言ってレッドは、自分のシャツの胸ポケットに手を入れたのだった。


◆3

 レッドは胸ポケットを探っていた。そして手を取り出し、指先を見る。
「見てみろ、フィル。さっき気づいたんだが……」
 その指先には赤い砂粒のようなものがついている。それはよく見てみると……動いているのだ!

 フィルは腰のポシェットから小型ルーペを取り出し砂粒を確認する。それは小さいダニのような生物に見えた。潰れているものはいないのでかなり硬いのだろう。手足は短いが鰭のように発達している。

「これがあの赤い水の正体さ。恐らく、湖の中心に近づくとこいつが一斉に群がって溺れてしまうんだ」
 これは自然現象なのだろうか、それとも誰かがこの生き物を湖にばらまいているのだろうか。

「この生物は昔からいるのかい?」
「いえ、初めて見ます……」
 メギッサもルーペで注視してみるが心当たりはないという。奇妙なことに、この現象が発生するのは水中花が咲くときだけなのだ。

 湖で行う漁の祭事のときは、こんなことは起こらないという。誰かがこの微生物をコントロールしているのだ。それが誰かまでは分からなかったが、恐らく人為的なものだろう。生贄を手に入れるため……そのために。

「グレイソフィア神は何か知っているのでしょうか」
 水中花を聖なるものとしているグレイソフィア神ならば何か知っているかもしれない。ただ、彼女はもう何年も干渉を受け付けていないという。

 この神が滅ぶ時代濁積世において、信者からの干渉に応じてくれる神は少ない。一方的に祭事などで干渉を試みているのが現状であることが多い。しかし、遥か昔にはグレイソフィア神は干渉に応じていたという。3人はそれにかけることにした。

 3人はグレイソフィアの神殿に侵入することにした。何らかの危機が彼女を襲っているのかもしれない。もし彼女が元凶だったら、その時は彼女と戦うまでだ。フィルとレッドは軽くそう言い飛ばす。

 メギッサはそれを聞いて怖くなった。神と戦うだなんて! ただ、この二人の青年が何か引き起こしてくれる。良くも悪くも、この状況を打開してくれる。そんな予感を感じずにはいられなかった。

 この二人の観光客からは、船を引きずり込む大渦のようなエネルギーを感じるのだ。



――水中に沈む花#3


◆1

 自治体は今日の夜にメギッサの姉を生贄に捧げるという。もう時間が無い。生贄に捧げられる場所はグレイソフィアの神殿だ。スキュラの首長はこの生贄の要求がグレイソフィア神からのものだと思っていた。

 神殿の警備は手薄だった。これは秘密裏に行われている儀式なのであまり大事にはできないということか。メギッサは大きい身体が目立つため、フィルの道具を借りることになった。フィルはメギッサに一つの指輪を貸してくれたのだ。

「この指輪を身につけていると、皆からの注意を逸らすことができるよ。もちろんはっきり見られたら終わりだけど、ちょっとくらい影が見えたりする程度じゃ気づかれない……一個しかないから失くさないようにね」
 指にはめていれば失くすこともないだろう。

 メギッサ達は神殿へと侵入した。警備のスキュラは姿が大きく、こちらからは容易にその場所が分かる。当然武装しており、見つかったらただでは済まないだろう。3人は注意深く警備をすり抜ける。だが、どうしようもない場所もある。

 本殿は湖の地下深くあり、そこまでは1本の洞窟で地上と結ばれている。出入り口は1つしか無く、洞窟の前で槍を交差して警備しているスキュラの戦士の間をすり抜けることは不可能に思えた。

「いいか、レッド、アレを使うぞ。今が使い時だ」
「しょうがない、やるか」
 フィルは懐から一つのカードを取り出した。メギッサは何が何だか分からない。まさか賄賂でも使うのだろうか?

「メギッサ、君は初めて見るだろう。これは全ての観光客が憧れるという《サウザン=マウンテン=エキスプレス・スーパー・パス》だ。この魔法仕掛けのパスで入れない場所はない。あと5回使える。そのうち1回を君のために使うぞ」

「えっ……」
 メギッサの返事を待たず、フィルは警備兵の元へ歩いていった。そしてパスをかざす。すると、青い光が差して、沈黙に包まれた。交差されていた槍が避けられ、道が開かれたのだ!

「はやく! 通るぞ!」
 メギッサは戸惑いつつも、走り出したレッドの後を追った! 警備兵は確かに何もせず3人を素通しした。この観光客たちはいったい何者なのだろうか? 不思議な指輪やパス……メギッサの想像を超える者たちだ。

「あなたたちは何者なんです?」
「僕らはただのプロの観光客さ」
 それしかレッドは返してくれなかった。すぐ話をしている状況ではなくなったからだ。洞窟を進むにつれ、赤い靄が立ち込めてきたのだ。

「空中を飛ぶやつもいるのか……一気に駆け抜けるぞ!」
 手足に纏わりつつも、水中ほど動きは制限されない。3人は必死に靄の中を走った。やがて……真っ赤に染め上げられたグレイソフィア神殿の本殿が姿を現した。


◆2

 3人は神殿の中に入ることにした。普段は誰も入っていけない聖域なのだが、緊急時なので仕方ないだろう。不思議なことに、靄は建物に貼りついているものの中には入れないようだ。かなり息が楽になる。

 重い音を立てて神殿の扉が閉じられた。フィルとレッドは光源を操作し神殿の中を探索する。地下へもぐるようなことは度々あるので、この光源という光る浮遊球はフィルもレッドも所有している。神殿の奥を照らしたとき、酷い光景が目に入った。

 グレイソフィアの神像が壊され床に横たわっていたのだ。これは尋常ではない。
「グレイソフィア様、何があったのです!」
 メギッサは彼女に呼びかけてみる。すると、石でできた神像に光が灯った。弱弱しい声が聞こえる。

 3人は神像に耳を当てて彼女の声を聞いた。
「……助けてほしいのです。遥か昔に、何者かがこの湖に化け物を放ちました。水中花の恩恵を手に入れるため……元凶の者が死んでもなお、化け物は居座り続けています。あいつを……どうか倒してください」

 女神の言う所によれば、その凶悪な化け物はこの神殿を乗っ取り、偽りの神託でスキュラの自治体を騙しているという。この神殿内部から追い払うことには成功したものの、化け物は神託で神殿に立ち入らないようそそのかしてしまい、助けが来ないままここにいたという。

「大丈夫です、私たちが化け物を倒してみせます……たぶん」
 自信は持てないものの、メギッサはそう答えた。水中花は数年に一度花が咲き、一夜にして実をつける。その実を横取りするため、この赤い靄が撒かれているという。

 いまは化け物の目的は変わって生贄を求めているようだ。生贄のもたらす力は絶大だ。化け物は、偽りの神から神に近い存在へと成長しようとしているという。グレイソフィアはそんな化け物と戦い続けているが、この神殿を守るだけで精一杯だ。

 グレイソフィアはそのほとんどの力を失っており、3人に貸す力を出すことができないという。だがレッドは笑って言うのだった。
「なぁに、このくらいの難関、観光中にはよく振りかかってくるもんだよ。安心して、きっと水中花を貴女のもとへ取り戻してあげますよ」

 レッドは神像を背中で押し上げて土台にもたれかかるようにして立たせてあげた。そして額の汗を拭うと、気合を入れる。
「靄ばかりで何にも掴めてないからな、まずは奴の本体を探さなくちゃ」


◆3

 グレイソフィアは自分の知っている情報を語りだした。靄は化け物の一部に過ぎず、本体は水中花の根元にいるという。近づこうにも、靄の攻撃を食らい溺れてしまうらしい。そのためグレイソフィアはどうすることも出来ず、防戦一方になっているのだ。

「なるほど……ここは俺達に任せて、君はここに避難しているといいよ。なぁに、こう見えても俺達、結構修羅場をくぐっているのさ。」
 フィルも笑って神殿の入口に歩いていく。レッドは立ち止って、振り返ると言った。

「あ、君たちスキュラは水中でも息が出来るんだよね。靄さえなければ」
「え、ええ。大丈夫ですよ」
 それは良かったと二人はハンカチで口を覆う。靄を吸い込むと少し苦しいのだ。そしてもう一度だけ振り返り、手を振った。

 そして二人は外の赤い靄の中へ消えていった。靄は濃く、姿はすぐに見えなくなる。フィルは立ち止って扉を閉めると、辺りは静かになった。フィルの物だろうか、それともレッドの物だろうか。光源がひとつ神殿内に浮遊していた。

「グレイソフィア様、私はあのひとたちにあって間もないのですが、何故か信じられる気がします。何か大きな力を秘めているような、そんな予感が……」
 グレイソフィアは語りすぎたのか、神像の輝きも無くなり黙ってしまった。しかし、その波動は心地よく、メギッサを安心させた。

 しばらくして、大きな地響きが神殿全体に響いていった。何が起こっているのだろうか? あの二人が何かをしたのだろうか。
”ウオオオオオオオオ…………”
 化け物の発する囁きが遠くから響いた。

 あのひとたちは……何もかも……めちゃくちゃにして……ひっかきまわしていく……台風のような……。グレイソフィアの意思がメギッサに伝わった。本当にあの化け物を倒してしまうのだろうか。しかしレッドは湖に泳いでいった際に溺れているのだ。

 普通の方法ではまた溺れてしまうだろう。彼らは何をしようとしているのだろうか。しばらくして、さらさらとした水の音が聞こえてくる。その水の音は次第に大きくなっていく。濃い水の匂い。神殿の近くに水が流れているのだろうか?

 水音はすぐに轟音となり、神殿を揺さぶるほどの勢いとなった。メギッサはグレイソフィアの神像にしっかりと掴まる。次の瞬間……大量の水が扉を押し開けて神殿の中へ流れ込んできた。



――水中に沈む花#4


◆1

 その化け物は湖の底でまどろんでいた。化け物は赤い蛸のような生き物で、漏斗のような口から赤い靄を吐き続けている。パイナップルのような模様がついた赤斑の胴体には、幾つもの眼球が見える。それがうとうとと半分閉じられていた。

 傍らには紫色の蔓がたくさん伸びている水中花の花があった。もうすぐ咲きそうな蕾がはちきれそうに膨らんでいる。薄くピンク色に色づき、豊かなグラデーションを見せている。しかし化け物はその美しい花には興味が無いようだった。

 この化け物はかつて邪悪な思考を持った召喚師が異世界から呼び寄せたものだ。召喚師は水中花の実を手に入れるため、この化け物を使って湖を封鎖しようと思ったのだ。だがこの化け物は知能が高く、召喚師を裏切った。

 召喚師はもはや湖の藻くずと消え、この名前もついていない化け物は長らく湖の支配者となった。偽りの神託でスキュラ達を操り、近づくものあれば赤い靄で溺れさせてきた。そして、毎年のように生贄を食らい成長してきたのだ。

 今年も同じように生贄を手に入れるはずだった。約束の時間は近い……神殿で儀式が行われ、湖と繋がっている洞窟に生贄が投げ込まれるはずだった。だが、奇妙な振動が湖に響き渡った。これはどういうことか? 化け物はゆっくりと覚醒する。

 次の瞬間、轟音をあげながら大きな渦が湖に巻き起こった。水門が開かれたのだ! この水門は湖の水を流して漁をする祭事のときにしか開かれないはず……その際は化け物は安全な場所に避難するのだが、何故今水門が開かれたのか!?

 化け物は突然の出来事に動転しながらも、必死に岩にしがみついた。渦に巻き込まれたらひとたまりもない。凄まじい勢いで湖の水が流されていく……気がついたときには、辺りの水は無くなっていた。干潟のように浅い水が張られた泥の平原が広がっている。

 はやく逃げないと……化け物は焦った。赤い靄で誰かが近づく前に溺れさせてきたのだ。いまやその赤い靄の水はない。漏斗のような口から赤い靄を吐きだす。空気中を飛び交うタイプの物だ。だがこれは化け物を守れるほど強くはない。

 ダムのような形で水を溜めていた湖は、もはや水を失っていた。グレイソフィア神殿の外観がはっきりと月明かりに照らされた。暗いうちに逃げなければ……もし誰かに見つかったら化け物は殺されるだろう。あくまで無敵なのは水中でのみなのだ。

 化け物は泥をかき分けて逃げだした。だが、進行方向に蛍のような燐光が浮遊していたのを見つけてしまった。あれは光源だ。誰かが近寄ってくる……逃げなければ! 急いで化け物は方向転換する。ぱちゃぱちゃと足音を立てて誰かが追いかけてくる!

「逃げちゃだめだよ、化け物さん。これから漁が始まるんだから」
 追いかける足音の主は、そう化け物に告げたのだった。


◆2

 レッドは化け物を追いかける。化け物はたくさんの触手を這いずらせながら泥地となった湖を逃げる。どこに逃げるかも分からない。赤い靄を必死に吐きながら化け物は逃げた。必死に逃げては、後ろを振り返る。

 光源はゆらゆらと化け物を追ってきた。光源の光が泥地の水に反射して丸いスポットライトのような光のステージを作る。その上を走って追いかけるのはレッドだ。何故か彼の足は泥地に沈まず、硬い道路を歩いているように走っていた。足跡の代わりに水の波紋が広がる。

 洞窟のようなせまい場所では威力を発揮した赤い靄も、広い湖の底では風で流されて拡散してしまった。化け物はそれでも必死に靄を吐き、這いずり逃げる。しかしレッドとの距離は縮まるばかりだ。ふと、化け物は湖に空いた穴を見つける。

 水門だ! 化け物はようやく助かった気がした。水門の近くには地下神殿へと続くトンネルがある。地下神殿は水門を開けると水没する仕組みだ。トンネルに入って地下神殿に逃げおおせれば、赤い靄の水で絶対的な防御が完成する。

 もう少し……もう少しで水門だ。化け物は喜びでいっぱいだった。だが、彼は忘れていた。誰かが……水門を開けたと言う事実を。水門の近くにも神殿のような建物が泥を被って存在していた。水門も地下神殿と繋がっているのだ。その扉が闇の中で開く。

 化け物は闇の中深い水を湛える淀みの中へ飛び込もうとした。だが、何かにぶつかった。誰かがいる! 化け物は驚いてめちゃくちゃに触手を振り回す。だが、ぶつかった誰かには何故か当たらない。化け物はその誰かに蹴られて吹き飛ばされた。

「フィル、そこにいるのか。てっきり水門の渦に流されたのかと思ったぜ」
「冗談きついよ。君が安全だって言ったのに」
 フィルとレッドは闇を隔てて短い言葉を交わした。レッドは化け物に追いつき、光源は化け物の頭上に移動する。

 化け物を中心に光のステージ……いや、処刑場がこしらえられた。レッドは拳を握り、ゆっくりと化け物に近づく。
「水中花の甘い汁を吸ってた蝶が、こんな化け物だったなんてね」
 レッドの拳が熱を帯びる!

 化け物はめちゃくちゃに触手を振り回すが、レッドには触れることすらできない。レッドは触手をかいくぐり、化け物の胴体に右拳をめり込ませた! 次の瞬間、化け物は身体中から火を噴き出し絶命した。

「一件落着、ってな」
「観光を始めようじゃないか。僕らは化け物を退治しに来たんじゃない、水中花を見に来たんだろう?」
 化け物の身体は火の粉を噴き上げながら、あっという間に灰になってしまった。

 火はすでに消え去り、光源がゆらゆらと揺れて、湖は闇に沈んでいった。


――水中に沈む花 エピローグ


 メギッサは水で一杯になった神殿の奥でじっと待っていた。スキュラは水中で呼吸できる。赤い水が無ければ溺れる心配もない。グレイソフィアの神像が再び輝きだした。暗い神殿の中、ふよふよと光源が水の中で揺れている。

 グレイソフィアの声が響いてきた。外はもう安全だと言う。メギッサは恐る恐る神殿の外に出てみることにする。青い水を湛えた水中洞窟の中を光源が照らしている。神殿の外壁についていた赤い靄はその生気を失い赤褐色に変色していた。

 ぼとん……と何かが水に入る音がした。見ると、水中洞窟の天井に光る窓が見える。いや、それは湖の底と繋がっている天窓だった。天窓の向こうにも別の光源の光が見えたが、すぐにどこかへ行ってしまった。メギッサを追いかけて光源が水中洞窟を照らした。

 光源に照らされながら、何かが天窓のあった所から落ちてくる。それはラグビーボールのような形と大きさの物体だった。青い宝石のような色をしている。それは水中をゆっくりと落ちていき、メギッサの目の前に落ちた。メギッサはそれを拾い上げる。

 ずっしりと重いそれは何かの植物に見えた。神殿の奥でグレイソフィアの神像が光っている。
”メギッサ……それは水中花の実ですよ”
「えっ……これが……」

”水中花の種は難病に効くと言います。あなたの姉もその実で元気になりますよ”
「いいんですか、これは聖なるもので……」
”その神があなたに下賜しようというのです。受け取ってくださいな”

「……はい!」
 メギッサは笑った。この実を届けてくれた者たちは分かっている。きっと他の観光客より一足先に水中花の花を見てきたのだろう。メギッサは彼らのことを思った。彼らはどこからともなく現れる。

 そしてみんな……大渦のように巻き込んで、何もかも洗い流していく。遠くで水音が聞こえる。誰かの話し声が聞こえる。この化け物は……誰かが水門を……はやく湖に水を……それは全てが終わった証拠だった。

 ゆっくりと水中洞窟の水が排出されていく。天窓が閉じられ、湖に流れていく大量の水音が聞こえた。
「あらあら、忘れ物になってしまいましたね……」
 メギッサは笑った。彼女の頭上では光源が揺れ、儚い光を放ったのだった。


――水中に沈む花 (了)









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