「海を空に変えてみせろ、だってさ」



 ジュドはこの難問を抱えながら今夜も草原の真ん中にそびえ立つ、天井の抜けた廃城の中へとやってきた。廃城のぽっかりと開いた天井からは星空が覗いている。
 彼は魔法使いだった。いや、まだ見習いだった。背は低い。まだジュドは15歳だった。彼はいつも師匠から無理難題を突き付けられ、魔法が成功しない限り次の試練へと進むことはできない。

 濃い紫のフード付きローブ。黒い絹の帯。杖を持ち、ランプを掲げて、彼は王の間へとやってきた。そこに……彼を待っているひとがいるのだ。

「なぁ、ルルー。どうやったら海が空になるんだよ。海がどれだけ広いと思ってるんだよ師匠は。そんな大きな魔力、僕にあるはずないだろ」

 壇上には仮初の玉座が置いてあった。それは木と蔓で編んだボロボロの椅子だったが、誰も座ってはいない。そこにやがて白い霧が集まり、蛍のような光点が浮かび上がる。そして、一人の、偉そうに玉座に座る娘の姿が現れた。
 娘は真っ直ぐ垂らしている長い黒髪と、古代の服のような白く縫い目のない服が特徴だった。目が金色に光っている。

「またわらわに助力を頼むのかね? そなたの試練にならんだろう。ン?」

 そう、ジュドは難問にぶち当たると、いつもこの娘……ルルーの助けを借りていた。最初は3年前だった。試練に失敗し続けて、廃城で泣いていた12歳のジュド。そのとき、突然現れてヒントをくれたのがルルーだった。

「なんだよ、もう力を貸してくれないのかよ」

 ジュドはあからさまに残念そうな顔をする。ルルーはそんなジュドを見て、ニヤニヤと笑うだけだ。ルルーは長い髪を手で梳きながら答える。

「相談は、無料ではないぞ。コンサルタントという立派な職業になれる仕事であるぞ。のう、ジュド。おぬしにはまだまだツケがたくさん残っておるぞ。それを、取り立ててもよいのだぞ」

 そう言われると、ジュドは俄かに恐怖が湧きあがっていた。強気な表情をそのままにしていても、額には冷や汗が滲む。ジュドはルルーが何者か知らない。霊なのか、精霊なのか、使徒なのか。あるいは……神なのか。

「分かったよ、何でもする。今までのツケを全部返して、新しい相談の分まで。それが目的だったんだろう? ルルー、お前は僕に貸しを作って、僕に何かを求めているんだろ? そういうことなら、素直に頼めばいいんだよ」

「話が早いのう」

 ルルーは不気味に光る金色の目をさらに輝かせた。髪を梳くのをやめて、大きく両腕を広げた。

「わらわは知識を欲しておる。わらわの動ける場所は無い。ただ、この仮初の玉座に座すのみじゃ。わらわは……退屈しておる。暇を潰せる……そうじゃな、本。本を何冊か持ってきて欲しいのじゃ」

 ジュドはその願いに拍子抜けしてしまった。呆れた顔をして、首を振る。

「そんなことかよ。てっきり僕は心臓でも盗んでいくんだと思っていたよ。本程度でいいのかい? 村の古書店で二束三文でいくらでも売っているよ」

「読み尽され飽きられた二束三文の古書でも、わらわにとっては垂涎の宝じゃ。それに、わらわはその二束三文も持っておらぬ。のう、ジュドよ。頼むぞ」

 ジュドは親指を立てて、笑った。

「いいよ。持ってくるよ。そのかわり、教えてくれよ! 海を空に変える方法を!」

「ン、よろしい。だが、先に本を持ってきて欲しいのじゃ。わらわは……そう、退屈しておるからな!」

 そう言ってルルーは大きく背伸びをした。するとその姿は半透明になり、夜の闇へと溶けていった。彼女は長時間姿を現すことができない。以前その理由をジュドは聞いたことがあった。曰く、非常に疲れるから、だそうだ。
 廃墟は再び静かになった。虫の鳴く音がはっきりと聞こえるようになる。もうルルーの気配は無い。だが、ジュドは壇上に上がり、玉座の隣に座った。

 泣いていた自分。過去の自分。いま思えば、取るに足らないことで泣いていた気がする。しかし、幼い自分にとっては、それは世界が崩壊するほどの悲しみであったのだ。ジュドはそう思っていた。ジュドの世界はあの頃よりほんの少しだけ大きくなった。
 ルルーはどうして自分に手を貸してくれるのだろうか。それがジュドにはどうしても分からなかった。ルルーはジュドに優しい。だからこそ、ジュドはルルーの力を気の向くままに借りてきた。

「対価が欲しいなんて、ルルーはどうしたんだろう」

 いままで無条件に知恵を貸してくれたルルー。それに甘えて力を借りていたジュド。しかし、今日に限って、彼女は対価を要求したのだ。どういう心境の変化か、ジュドには分からなかった。

「親しき仲にも礼儀ありってやつか。そうだよな、たまにはルルーに感謝しないとな」


 次の日、しみのついた古書を抱えてジュドは夜の廃城へとやってきた。草原の夜空には満天の星が輝き、草葉を揺らす夜風が心地よかった。
 ジュドは気分がよかった。今まで教えを請う立場だったジュド。しかし、今日という日はあの偉そうなルルーに本を教えることができる!
 ジュドは古書の中から自分の好きな本を選りすぐって持ってきた。

「ルルー、本を持ってきたぞ。ルルー、気にいるかどうか分からないけど、これが君の欲しかったものだろう?」

 廃城の王の間、壇上には仮初の玉座があった。しかし、そこには誰も座ってはいない。いつもなら、ジュドが廃城に来るとすぐに姿を現したルルー。しかし、いつまでたってもその気配すら現れなかった。

「ルルー。どうしちゃったんだよ。僕はまだ海を空に変える方法を教えてもらってないよ。逃げるのかよ」

 廃城の中でジュドは声を張り上げる。だが、その声は虚しく反響し、夜空へと消えていった。夜風が廃城の外で渦巻き、びゅうびゅうと音を立てていた。

「僕はまだ知りたい事や、解かなくちゃいけない問題が山積みなんだよ、頼むよ、ルルー出てきてくれよ……」

 力なくジュドは呟き、仮初の玉座の隣に座った。自然と、涙があふれてくる。あの日から流すことのなかった涙だ。課題が解けないことより、ルルーに見放されてしまったのではという恐れが彼の中にあった。

「何泣いているのだ、のう、ジュド」

 ルルーの声。だが、振り返ってみても彼女の姿は見えない。零れかけた涙を押しとどめ、ジュドは強がった。

「泣いてなんかいない。僕はもう泣かない」

「そんなこと言ったって、寂しければ、悲しければ誰だって泣くものであるぞ」

 ジュドは立ち上がってルルーを探した。だが、その影すら見つけることはできなかった。

「ルルー。もう僕の前には姿を現さないのかい。どうして、どうしてなんだい」

「わらわはもうこの世には存在できないみたいじゃ」

 声だけが響く。ジュドはルルーを探すのをやめて、仮初の玉座に腰をおろした。

「じゃあ、さよならなんだね。もう、僕には何も教えてくれないんだね」

「そんな風に強がったって、本心はわらわには手に取るように分かるぞ」

 ジュドは悲しかった。それをルルーは知っていた。ジュドはツケを返していないのだ。それもルルーは知っていた。
 楽しみだった。ジュドは、初めてルルーに教えることができるのだ。ジュドが選んだ古本の面白さを、ルルーに教えることができる。
 いままで一方的に教わる側だったジュドが、初めてルルーに教えることができる。その時を……ツケを返す時を、ジュドは楽しみにしていたのに。

「ジュド、最後に教えてあげようぞ。海を空に変える方法を……」

「大丈夫、言わなくていいから。僕がルルーに教えてあげる」

「何を教えるというのじゃ。わらわはそなたからたくさんのものを……」

「大丈夫。僕はもう、一人でも大丈夫だってこと。それをルルーに教えてあげる」

 そしてジュドは、その“方法”を囁いた。自分の耳にさえ届かないほどの小さな声だったが、ルルーには聞こえたようだ。

「いい方法だな……わらわには思いつかなかったのう。わらわは……最後に教えられたようじゃ。ジュド、そなたの……」

 それっきりルルーの声は聞こえなかった。もう、遠くへ行ってしまったのだろう。ジュドは何故ルルーが自分にたくさんのことを教えてくれたか分かった気がした。ひとにあらざる存在。その存在の証をジュドに教えたかったのだろう。

 ジュドは静かに顔を上げて、廃城を後にした。仮初の玉座には、古本が積み重なっていた。もし、もし奇跡が起きてルルーが帰ってきたら……退屈しないように。


 ***


 試験の日、ジュドの魔法がその両手から放たれた。長い髭の師匠は黙ってその魔法を見る。岩に波がぶつかり、激しくかき乱される波打ち際。その一角が、突然鏡のように平らになった。ほんの小さな領域である。両手を広げた程度の大きさの海面から、波と泡が消えたのだ。

「師匠、これが海を空に変える方法です」

「なるほど……ジュド。これは今までで一番小さく、取るに足らない魔法だな」

 師匠はそう言って長いあごひげを撫でる。

「だが、一番誇るべき魔法だ」

 師匠は知っていたのだろうか、ルルーとの交流を。彼は小さく頷くと、ジュドの肩を叩いて笑顔を見せた。

「合格だ」

 鏡のようになった海面。そこには、美しい青空が反射されて煌めいていた。



(了)

書き出し.meで公開したものの転載です










もどる